教育現場からの学力問題


                                   山梨県教育研究所 所長 宇野五千雄


 短期間で多くの内容を覚えなくてはならないために、ごく基礎的な知識でも十分身につかないまま高学年に進んでしまう子が少なくない。
 そこで、一人一人の子どもに応じてもっとじっくり学べるようにする。「ゆとり教育」への転換が謳われたのは一九八〇年の学習指導要領の改訂のときであった。
 そして一九八九年から指定校を対象に試行が始められ、本年度四月から、教科の学習内容が約三割削減され、五日制が完全なかたちでスタートした。
 だが、欧米の学校と比べるまでもなく、日本の学校の日々は相変わらず「ゆとり」の欠片も見られない。この実態を知らないのか、知ろうとしないのか、「ゆとり教育」「五日制」は学力低下を招くという論法が世論をゆさぶっている。文部科学省で昨年春実施した学力調査の結果では、教科によっては低下の傾向が認められたとの報道がされているが、もっと冷静に分析する必要がある。
 今後さらに学力低下論が勢いを増し、子ども達に過重な負担を強いる方向にいくなら、それこそ時代逆行になる。
 これまでの国際教育到達度評価学会の調査によると、日本の子ども達の数学・理科の学力はトップクラスであったことも知っておく必要がある。
 学力問題を本気になって論ずるなら、まずは教育現場を見なければならない。
 この頃の子ども達を見て多くの教員が感ずることは、意欲がなくなってきていることだ。
 小学生程度の算数の計算ができない大学生がいると困惑している大学の教官達は、小学校から高校までどういう教育をしているのかと、厳しい問題提起をしている。
 算数の計算ができるかできないか。そのレベルよりもっと大きな問題が浮上してきているのである。大学生や子どもの意欲がなぜ低下しているのか。このことは、今問題にしなければならないことだと思う。
 意欲の低下も「ゆとり教育」に起因すると論ずるなら、それはちがうと私は思う。日々のせせこましさ、競争を強いられる日々。こういったことも、意欲を低下させている原因の一つではないかと考えるが、もちろんそれだけではないだろう。
 「今日の数学の教育がうまくいかない原因は、受験という手段にのみ矮小化されているところにある」と言う大学の数学者の声は、他の教科にも共通する問題である。
 「ゆとり教育」のねらいの一つは、本来の「学び」にかえり、子どもたちがその子なりのやり方でじっくり学ぶことができる時間を保障してやることだと私はとらえている。
 これになんの異議があるというのだろう。昨今の学力低下論では、「学校週五日制」とか「ゆとり教育」批判に集中しがちであるが、なぜゆとりが必要なのか。どういうところにゆとりが必要なのか。ここのところの論議がなされないと、教育現場から遊離した学力論争の繰り返しで終わってしまう。
 子どもの学習内容や時間を増やせばいいという簡単な問題ではないのである。「ゆとり教育」の意味を、子どもの側に立って理解する必要がある。
 今の教育問題は、旧態依然たる日本の学校のシステムそのものにも起因するという声も聞かれる。ともあれ、いかなる状況にあっても、教員である限り情熱を燃やし続け、子どもによりそっていかなくてならないことは言うまでもない。
 学校週五日制のねらいにもなっているのだが、学力をたんに受験学力という狭い意味にとらえることではすまされなくなった。社会に生きて働く力としての学力を育てていかなくてはならないのである。