総合的学習の源流をたずねて
               ───  山梨県における終戦直後の総合的学習 ─── 

                              
                                    山梨県教育研究所長 宇野 五千雄


1.はじめに
学校週5日制の実施、ゆとり教育への転換が打ち出されてから、学力低下論が起こり相変わらず教育現場はゆさぶられるばかりである。
 この動きの中で、新設された総合的な学習がはやくも厄介視され、教科学習偏重に逆戻りするムードが出始めている。教科の学習重視そのものは問題はないにしても、そのために総合的学習の形骸化を画策することは、それこそ時代の逆行ではないか。
 総合的学習なるものは、一部の先進的な学校の実践であったにしても、ふりかえってみれば明治後半の時代に遡ることができる。そして大正時代、デモクラシーの気運のなかで、子どもを中心に据えたいわば下からの教育改革運動が興る。具体的には第一に教科の学習について、教材の設定、授業過程などの発想の転換が図られ、これと連動して総合的学習の実践が始まっている。
 昭和に入ってから国家統制による戦争のための画一教育の時代が長く続いたのだが、太平洋戦争後の新教育運動は、大正時代に芽生えた新しい教育への改革の動きが蘇ったものとみることもできる。
 戦後なぜ総合的学習が興ってきたのか。
 それについては、次に紹介する学校の実践に関わった人々が力強く答えている。
戦後全国各地で新しい教育をめざして立ちあがった多くの教師達によって、先進的な実践が生まれる。山梨県にあっても、その事例は少なくない。
 当時の記録が残されているいくつかの学校のなかから、今回は北巨摩郡の韮崎小学校の取り組みを紹介させていただく。

2.韮崎小学校の研究
(1)何をめざしたか
韮崎小学校は、1949年に東京大学の成田克矢氏の助言を受け、地域社会の研究、児童調査を土台に、理論的実践的な研究を重ね、カリキュラムづくりを始める。
まずカリキュラム構成委員会が組織され、委員長は、校長。副委員長は町議会学事委員長、PTA会長、全職員といった構成である。
 当時の記録書(上)の冒頭に、古菅光義校長が述べているように、『終戦後我が国は有史以来の大規模な教育改革の時に遭遇したのであり、文化的平和国家を建設するべく、特に教育者はその先鋒となることを自覚しながら、父兄・地域社会に理解と協力を求め、カリキュラム構成にのりだしたのである。』*1
 また副委員長(PTA会長)の保坂五郎氏は、次のように書いている。
『従来の教育のように単なる物知りを作るために、鸚鵡がえしの暗記教育をしていたのでは、子どもの全人格は望ましいに姿に成長していかない。日常生活の「しつけ」や実地についての「考え方」の指導が行われてこそ、その子ども達の将来を約束する。それには私達大人自身が生活の根底を流れている社会の実相を探求し批判し、その矛盾や撞着の解決に乗り出さなければならないし、家庭生活をもっともっと科学化合理化して住みよいものにする努力を惜しんではならない。こうした努力はやがて無意識に子ども達の成長によい結果を及ぼすことであると思う。またこうした努力こそカリキュラムの根本精神を発揮する最良の方法であると信ずるのである。カリキュラムが学校だけの仕事ではなく、それは私達父兄や町民が是非一致協力して推進させるべき仕事なのである。』*2
また、カリキュラム構成委員会目的設定部長(PTA副会長)矢崎英夫氏は、『もともと小学校は、学習者が有能で賢明な公民として、常に進歩していくのに必要な基礎教育を行うところである。しかし基礎ということを狭く解釈すると、とかく読書算ということだけに力をおいてしまう。そしてそこには画一的強制的な教育が支配して、学友にかくれてまでも特別な勉強をしたり学友と助け合って参考書研究したり調査に出かけることをおそれたりするような学習も出てくる。
時代は変わっているのである。
 児童も生活経験を通して望ましい 知識、技能、態度を発達させながら他の子どもたちと結びつきをもたなければならない。
新教育はこのような旧観念を精算して、自主的な学習、明朗な共同学習、有用な課題学習、一言にしていえばほんとうに実力を付ける学習を促そうとするものである。旧観念に縛られた親達は、しばしばカリキュラムの勉強は実力を低下させると心配したり非難したりする。 いったい実力とは何であろうか。貴族的優越感に立って上級学校をパスすることであろうか。入学試験、学期試験を突破することであろうか。生活の実現の問題に出会ってインテリの無力さが痛感されることもその例が多い。
 実力とは何か。それは児童がこの自然ならびに社会的環境と取り組んで、よりよく適応し、その環境を一歩一歩改善していくことのできる力。これを実力といいたい。
 大人たちは昔の尺度で新しい世代の経験を測定しようとしてはならない。自分を越えて進む若人の歩みの中に歴史の進歩を見なければならない。(中略)
 カリキュラム改造は学校内だけで行われるのではない。人間の生活あるところには教育がつきまとっている。教育の改革は学校内だけでは片づかない。それは必然に社会の改造と表裏をなすものである。
 今や教科書の代わりに、地域社会の生きた生活そのものが教科書となっているのである。(後略)』*3
引用が長すぎたが、その意図するところはくみ取っていただけるだろうか。
あの戦争で混乱を極め、疲弊しきった戦後の地域社会にあって、新しい教育は自分たちの手でという意気に燃え、保護者・地域住民とともにカリキュラムづくりに立ちあがった当時の韮崎小学校のPTA役員をはじめとする教師たち。
 ここで述べられていることは、今まさに火花を散らしている学力論争に対抗しうる発言ではないか。今の学力低下論者は、どう受けとめるだろうか。
総合的学習に少なからず戸惑い、懐疑的消極的になりがちな昨今であるが、すでに50年前、めざすべき教育の基本が語り尽くされているのである。

(2)まず地域から
 今は教科書が学校教育の中心的な教材として位置づけられ、基本的には全国どの地域にあってもきわだった差はなく教育を受けることができる。そのことの意義は認めざるを得ない。しかし、実態はどうか。そのことの効率性が必ずしも高い成果を生みだしてきたとは言い切れない。教育現場ではいつしかそれほどの問題意識もなく当然のごとく画一的教育に陥ってきた。その後、様々な問題が見えてきた。そして近年は、日本の教育の問題の一つとして、画一的教育による弊害が指摘される時代になったのである。
時代の趨勢とはいえ、皮肉なことである。
話を戻して、戦後あれほどの意気で始められた総合的学習を軸にした新しい教育運動は、全国的な広がりを見ずにまもなく衰退する。
 なぜなのか。この分析をあらためて行う必要があると考える。
這いまわる経験主義学習と批判され、まもなく台頭してきた当時の学力低下論とともに系統学習をとなえる勢力に押さえられたためということであるが、教育現場の視点からふりかえってみると、
 当時の総合的な学習は、今のように教科学習の時間に付け加わるかたちで並立されたものではなかったので、戦前の教育とのあまりのちがいのために、教育現場の大半の教師たちには、理解しきれなかったのではないか。
戦後の荒廃のなかから「民主教育の確立」をめざした新教育運動。この「民主」という言葉からすでに実感が湧かない。地域の生活のなかに教材を求める。自分達で、しかも保護者や地域の協力を得てカリキュラムを作る。教師が一方的に教え込む指導を改めるなど。従来の教育の常道を一変させる考え方だったのである。
総合的学習が新設された現代の教師達のとまどいとは、比較にならないほどの大変な状況であったに違いない。
 韮崎小学校など、先進的な取り組みに立ちあがった県下のいくつかの学校に畏敬の念を感ぜずにはいられない。
 それらの取り組みがまもなく台頭してくる系統学習の動きによって衰退の道をたどったにしても、今あらためてその研究と実践の記録をひもとき、問い直し、今の実践研究に蘇らせ、花を開かせる価値があると考える。
とにかく韮崎小学校の記録を読んでみよう。
この報告書の全体の構成は次のようになっている。
「カリキュラム構成記録(上)」
○町の現実
歴史 ・自然・交通・政治・経済・厚生・文化・調査
○町の児童
児童の身体状況・遊技調査・学習スコープ別調査(人対人・人対文化・人対自然・人対用具)・作文による調査
○町の動き
カリキュラム構成委員会・目的設定委員会・世論調査
○職員の研究
概論・本論の研究・教育者としての研究・社会調査・児童調査・学習指導の進展(研究授業)
○単元研究の歩み

「カリキュラム構成記録(中)」
○町の現実(続き)
第2次工業調査・町の動き
○町の児童
児童数・身体状況・知能検査の結果・地図能力表現調査・作文調査
○職員の研究

「カリキュラム構成記録(下)」
○教育行政と学校概要
教育委員会の発足・教育指針の決定 他
○改訂編
改造への動き・中間発表研究会における質問・指導計画の改訂 他
○改訂学習項目
第1学年から6学年
○資料編

以上のような構成であるが、カリキュラムづくりの常道であるにしても、まず地域の地形と地質を知ることからはじめ、その地域に生まれ育つ子供達の生活に関することまで、子供の教育につながるものをあらゆる角度から調べる。この綿密さには驚かされる。これほどの調査にかけた月日とエネルギーは並々ならぬものがあったろう。
これからどういう教育をしていったらいいのか。新しい教育を自分たちで作っていかなくてはならない、否応なくその大仕事に直面した親と教師達であった。まさに0から出発する意気込みであったにちがいない。
韮崎小学校のカリキュラム構成委員会を中心として地域を調べまとめていった仕事は、その後の県下各学校での取り組みの先駆的なものである。
記録の中で、ふと目に留まったのは、児童の調査の項目で、人と自然に関する調査の中に、小学校1年生には質問法で、2年生以上の子ども達には筆答法で「あなたが日頃変だなあと思うことについて」書いてもらうところがある。
今の総合的学習のテーマづくりの際の参考になると思う。低学年の子供たちにはまずテーマの設定から難しいので、結局教師がお膳立てし、その方法まで事細かに指示して、総合学習なるものに格好をつけてしまうことが少なくないと思われるが、低学年なら低学年なりの小さな、ほんのちょっとしたテーマでその子なりの方法でとにかくやってみる。そういう素朴な体験が大切なのだと思う。教師はその過程を見守ってやってほしい。
 
(3)研究が進むなかで
構成の記録第3章のなかで次のような概況が書かれている。
『終戦後数年の教育がいかになされてきたか。われわれの足跡が明白ではない。毎日の教育に対する確たる信念がなかったこと、教科書中心の教育より脱することができず、さりとて新教育の如何にあるべきかも知ることができず教師は唯悩み続けていたのであった。(後略)』*4
学校と保護者が共同して町の人々に新しい教育について認識してもらうべく、町役場、町議会などに協力を求めていき、地区別の懇談会を開く。カリキュラム構成の道のりは容易ならぬものがあったことが伺える。
そして第4章に至って、いよいよ職員の研究の経過がまとめられている。
 カリキュラム構成の職員は次のような点を話し合い確認する。
『・研究の主体はわれわれにある。
教育実践には理論を必要とする。われわれもある理論を持っている。しかしより高い理論の援助は決して却くべきでない。実践に有効な限り喜んで取り入れようではないか。
・児童を犠牲にしない。
 この仕事を実施するに当たって、毛頭日常の学習指導を忽せにしない。児童のための研究が児童を犠牲にして意味はない。研究会その他これに要する会合、個人研究 は一切放課後、休日としよう。場合によれば家事は犠牲にされなければならない。
 しかし恐らく、われわれの今後成し遂げていく研究が、実際の学習指導に無駄であることはないであろうし、新しい着眼に立つ教育研究が、凡そ、真実である限り個人生活の障碍となるとおも思えない。
 ・地味な道を歩もう。
外部的なその場限りの動機によってする構成であってはならない。拙くともよい。
一歩一歩堅実な道を歩もう。
自分たちに使えるカリキュラムを作ろう。華々しい外観で貧弱な内容を持つことを避けていこう。児童のために、地域のために、ひいては国家再興のために。
・地域の人々ともに
学校が徹頭徹尾主導性を握ると短命カリキュラムになる。われわれは教育改革のこの運動の使命のために地域の人々を動員しなければならない。そして地域の人々が教育改革は生活基盤のたてなおしであると自覚し、この考えが伝統的な強さをもつに至って主導性のバトンタッチをしよう。それまではいろいろな困難と障碍と時によれば圧迫さえあっても敢然として立ち向かっていこう。
・研究は全職員で
われわれは一時の気まぐれでこの仕事に着手するものではない。この仕事の結果については全職員で責任をもとう。』*5

 以上は、カリキュラムづくりに向かう職員の決意であり、スローガンであった。
現代の私達の教育研究のあり方に対しても、当てはまる内容であり、厳しく突きつけられたような思いがする。
研究のはじめとしては、米国における新教育運動の歴史、米国における構成プラン、外国における教育改革の状況、日本カリキュラム構成運動、われわれの構成続きなどを調べた。
そして教育を次のように考えた。
『われわれの研究は、教科至上主義教育、教室万能主義の教育が過去のものであり、教科カリキュラムがともすれば固定化する傾向をもつから、新しいカリキュラムは現実生活の再構成であり、生活の場の構成に外ならないものであることに落ち着いた。教育は具体的な生活の編成であるから、単に発達心理学や社会学や哲学から一方的に割り出されるものではなく、これらやその他の諸科学の上に何らかの原理を持って立つべき機能である。学校の教育においては「今、目の前にいる児童の生活の向上」をその原理として掲げるべきである。だからこの原理は決して概念的存在ではなく、実践的、具体的生活そのもののなかに存在するのである。
 現実生活の分析が教育の、ひいてはカリキュラムの構成の第一歩である。往々にして現実のみを強調することが、人類文化の退歩であるとか、理想性を欠くとかの非難もある。
 しかし「歴史的現実」に立つときその無限の要因の伏在することを知っている。徒に概念的に物事を対立して考えていくことはその仕事においては禁物である。また一方児童中心と社会中心の流れをスコープ(学習の範囲)とシーケンスの枠組みで機械的に操作することによって、教育内容が決められるような考え方も早まっている。教育の内容は具体的な生活のなかに存在する。(中略)
 教育とは生活を編成してやることである。(後略)』*6
あの当時の時代背景があるとは言え、徹底した生活主義的な印象を受けるが、教育の原点としての考え方であることには違いない。
 ただし、研究が進むにつれて、このような記述の仕方が見られるわけで、やはり冷静な考え方が見えてくる。まずは地域というものの概念についてである。
第1に遭遇した問題は、「地域」なる概念の正体であった。教育計画を樹立するこの「社会」は、行政的区分に立つこの町という社会を地域概念の出発点とする。けれどもこの町は単に孤立した存在ではない。他の地域、他の社会と相即的な存在である。この地域内の問題は広く高い展望によってあるべき位置に納まるはず。だから地域教育計画の樹立が空間的に限定されたこの町内だけで操作されるという見方は誤っているはずである。この教育計画が町内だけの事物や事項のみを内容素材とするものではないと規定し、嘗ての郷土教育の復活ではないことを断言している。
町内の事物についての問題を取り上げたとき、それに対しては多くの学理、系統的知識や技能の動員を持って解明されるもの。こうした過程は児童の学習活動に取り入れられないはずはない。系統的知識は問題に奉仕すべきもので、児童は決して系統的知識の奉仕者ではない。われわれの考えはある普遍的な系統的知識の系列を具体化するための生活学習とは根本的に違うのである。
以上のような記述のなかに学校内の議論のなかで、地域とか教材とか、系統的な学習といった問題について対立意見が起きている。これは当然のことであって、現代に至っても多少の違いはあっても基本的には共通なテーマとして議論が繰り返されているのである。
 ともあれ、教育計画が具体化するにつれて、学校の改革を支えるはずの地域の生活改善は思ったほど進まない。地域に意欲を引き出したいが、期待通りにはいかない。地域の改善が進まない分、学校に負担がかかってくる。

(4)生活総合学習から生活科へ
 昭和25年3月 東大の成田氏が来校した折り、学習は生活総合学習であることを提言。この学習の典型的構造は、人間、自然、用具、対自己の5分野の上に立ち。単元学習は次のようなシステムをもつ。


政治
経済
社会調査   文化 生活改善目標 厚生
交通 人対人
人対文化
課題 課題解決の用意 人対自然
人対用具
人対自己

この提言をもとに職員は議論をし、実験授業に入る。実際にやりながら成田氏の提言するスコープ論の解釈に分かれるところもあって、実践的に難しい。また当時の児童数の多さ、学校の設備の不十分もあって、この構造では使いにくいと結論した経過もあった。
元来生活総合学習は、既存の教科を前提として考えられたものではない。しかしここで一挙に実施することは現状では困難と判断する。
 そして自分たちの歩みを堅実にするために、生活総合学習の精神に立ちながら、実施面を縮小し、生活科を設ける。生活科と言っても今の小学校低学年の生活科と同じものではないが、共通の問題を含んでいると思われるので、比較する価値はある。
この科の時間は、社会科・理科・家庭科の時間を充当することになる。先に示した図で言えば、人対自然に該当するところであろう。
またこの時期、莫大な経費と時間月日と労力を要してきた調査に対して、あれほどまでする必要があるのかという議論も出ている。当時の財政状況、教員の勤務条件下では無理ではないかという。この地域の生活に即した教育計画樹立に民衆の協力を求めるというとき、民衆に納得のいく現状披瀝をしないで、直感的結論のみを押しつけることが、科学性を放棄するだけでなく、民衆自体を愚視することにならないかという声である。
あれほどのおおがかりな調査である、やったことそれ自体には計り知れない意義はあった。しかし、それにかける労力は、一学校の教員の作業としては限界を越えていたに違いない。しかしながら調査の必然性は否定できないし、児童の教育に矛盾するものではないと断言している。ここに伸べられていることは痛烈な自己反省である。こういう議論をのり越えて、より確かな考え方と実践が生まれるのである。

(5)単元構成の試案づくり
地域の調査のあと、先に図で示したとおり地域の問題として、政治・経済・交通・文化・厚生の各部門別にまとめ、生活改善をめざした教育計画として、学年別の単元構成に入る。
構成記録を読むとその量的な膨大さに圧倒される。整然と整った形で編集されている現代の教科書をもとに教育課程をくんでいる今の私達から見ると、気が遠くなるような作業の集大成であった。
韮崎小学校のカリキュラム構成記録(中)にも記述されているように、当時の児童数は1420名、このうち分教場に59名、教室24,分教場3教室 、学級数26(本校24,分教場2)1学年4学級、児童数の多い学級は64名という規模であった。
戦後はどこの学校にしてもすしづめ学校であったのだが、こういう状況のなかで新教育をめざすことの困難さは、想像に難くない。
生活科を実践していくにしたがって、様々な疑問や新たなる課題に突き当たっていたはずである。
カリキュラム構成をしていくなかで、 基礎学習という問題について考えると、行き詰まりを感じていたところもあった。
つまり次のような記述がある。
 『基本的な考え方として当初確立していたのだが、やはり曖昧さも引きずっていた面もあった。経験学習にうったえる教育と系統的知識技能の教育がどこまでも二元的性格のままに進むものであるのか。この二元的性格は克服されるものなのか。あるいは永久に対立したままでいるものなのか。さらに経験学習と系統的知識技能の教育とは全然相容れない孤立したものであるのか。』*7
この点についても、やはり今日でも問題になるところである。
さらに、構成記録(下)には、単元学習を展開していくなかでの問題点として、次のような提起もある。
 『単元学習の展開のなかに、突然あるいは不可避に他の諸社会集団の気まぐれな計画に押し返される。そのため学習の展開の一時の停止を余儀なくされることすらある。これが学校社会の現実であり、地域教育計画が純粋性を失うもとになる。
児童の現状、教師の労働可能度、家庭の負担、学校の教育計画を抜きにした行事の連続は教育の破壊である。
 教えども教えども指導時間の不足をかこち、指導要領のねらいを半分も達し得ないことがあるのは、また学力低下という声があるのは、唯に新教育、教師の実力不足、児童の素質のみに責を帰すべきものであろうか。一つ一つの諸行事の教育的価値や意味をたたえても、それが現実のもとに学校をあがかせることは、立案者や要求者の自己満足に終わるか、児童や教師の犠牲的結果を招くことになる。いかに教育的美名を掲げたものでも捨つべきは捨てていかなくてはならない。また、一見極めて存在的価値の少ないと思うものでも、その地域に生きた効果を持ち、真に教育的意味のあるものは、計画のなかに取り入れていかなくてはならない。』*8
多忙を極める今日。あの当時すでに学校は諸行事に圧迫され始めていたのか。外国の学校と比べると日本の学校はいかに行事が多いか。これはまさに歴史的な状況なのだと思わざるを得ない。
3 .おわりに
紹介が長くなってしまった。しかし、これでも不十分の誹りは免れない。
最後に構成記録(下)に寄せられた幾人かの 巻頭言から、当時の町教育委員村松政子氏の言葉の一部を引用させていただく。
『終戦までの我が国の教育は、官僚独裁の具として上から下への一方的な統制の中に屈服して、上意下達即ちこれ事とする教育方式であった。まず中央で伝達すべき素材を決め、これを少数の教科書編纂委員の手にまかせて国定教科書を作り、すべての教師に対して、小国民に教科書の内容をよりよく飲み込ませることを要求した。だから、中央で決定した教材内容をそのまま上手に咀嚼し理解させることをもっともよい学習指導の形態とした。この線に沿ってよくかみ砕いて上手に飲み込ませる教師を優秀であるとした。(中略)
教科ごとに決められた教科書を1ページより順序だって学習すれば、一人前の人間ができると思いこんでいた。
このような教育方式を徹底的に打破して、近代民主革命の一環としての教育方式をうち立てることは、戦後国民全体、学校関係者のみでない私達国民一人一人に課せられた大きな使命であった。』*9
 激しい言葉である。
戦時中の教育の否応なく刻み込まれた人々の叫びのような言葉である。
今の教科書は、戦争時代の教科書とは一変している。今はまたちがった意味で、教科書とは何なのかを考える必要がある。
韮崎小学校のカリキュラム構成記録を読み直していくと、旧くて新しい問題が有り余るほど提起されている。
それはともかく、当時の教師たちの情熱と労苦を伝えきれない事が残念である。私自身の非力を許していただくしかない。
この記録を読みながら、信濃教育の原点と言われる長野の教師 三澤勝衛の「地域を知らずして、地域の教師にあらず」という言葉を思い出す。彼は自分の足で、自分の目で確かめ、自分の頭で考え、地域を知っていった。韮崎小学校もそうであった。


 本稿を執筆するにあたって、この貴重な資料を快く貸して下さった韮崎小学校に対してお礼申し上げます。


使用参考文献
「カリキュラム構成記録(上)」
       1951 韮崎小学校

「カリキュラム構成記録(中)」
       1951 韮崎小学校

「カリキュラム構成記録(下)」
       1953 韮崎小学校

*1 「カリキュラム構成表(上)」1951韮崎小学校 序p.1
*2 前掲書 序p.4
*3 前掲書 序p.6
*4 前掲書 第三章p.1
*5 前掲書 第四章p.2
*6 前掲書 第四章p.8
*7 「カリキュラム構成表(中)」1951韮崎小学校p.108
*8 「カリキュラム構成表(下)」1953韮崎小学校p.244
*9 前掲書 p.7