新しい“カリキュラム”を創る


〜「総合的な学習の時間」を生かして〜

    教育課程研究委員会報告第T集

 《主な内容 》 
           
   ☆ カリキュラム改革の視点
        
視点1:教職員の意識改革を 
       視点2:学びの主体としての子供
       視点3:「開かれた学校」ベースに
       視点4:子供と共に創る
       視点5:質的な評価を
   
    
☆ 知の総合としての「総合学習」  
        
−総合学習をカリキュラム開発の核に−
    
              2000.3.30. 山梨県教育研究所

1999(平成11)年度教育課程研究委員
 
   【共同研究者】 澤本和子(日本女子大)
             宇野五千雄(御坂中) 望月眞(富士豊茂小)

   【委 員 】 ◎ 上野 清(西桂中)    ○ 秋山富士雄(高根東小)
          ○ 山本 仁(小泉小)    ○ 梶原憲十郎(県退教)
            天野 昭(大月東中)     杉本武雄(富士小)
            田中稔彦(県退教)      原 喜雄(日川小)
            望月主税(富士見小)    大勝利宏(市川南小)
            内田智之(塩山中)     石川 力 (一宮中)
            上田真司(市川南中)    山下一雄(西嶋小)
            深澤和博(白根百田小)  中山栄二(武川小)
            一瀬純司(増穂中)     穴水秀人(櫛形中)
            山本一弘(韮崎東中)    渡辺政孝(小立小)
            小坂健二(笹子小)      長谷川伸一(大国小)
            小坂寿美雄(大月第一中) 大森竹仁(富竹中)

    【 山梨県教育研究所 】 所 長 望月忠男
                   事務局 井上敬典 篠原忠実

           *敬称略 ◎委員長 ○副委員長



はじめに

 2002年からの新しい教育課程の完全実施に向けて、学校では新しい方向性とそれに伴う内容づくりを、移行を含めて着々とすすめているところだと思います。世紀の変わり目でもあることから「21世紀の学校像を求めて」とか「21世紀に生きる○○」とかのキャッチフレーズで語られることが多いわけですが、私たちは、21世紀の子どもたちには「自由で心豊かな『地球市民』に育ってほしい」と願い、新教育課程で極めて重要な役割を担う「総合的な学習の時間」を窓口に、前提となるカリキュラム観、教育観、子ども観、学校観等について、それぞれ検討を重ねてきました。“教育課程”といわずに、“カリキュラム”とした理由については、教育行政用語の“教育課程”よりもう少し広く、柔軟にとらえたいと考えたからです。「生きたカリキュラム」とも言うべき「curriculum vitae」は、履歴書(a personal history)とも訳されます。カリキュラム編成とは、一人ひとりの子どもたちの履歴書を創りあげていく仕事ということになります。子どもたち(学習者)が経験するすべての経験(履歴)もカリキュラムに含みます。
 子どもは、教えられることをそのまま学ぶ受動的な存在ではなく、能動的な学習者として教えられたことを独自に意味づけます。その意味づけた内容が、その子にとってのカリキュラムとなります。中教審は、答申のなかで、「教育は『自分探しの旅』を扶ける営み」と言いました。子どもが自分らしさと「自分史」をつくっていく過程にこそ、カリキュラムの中心があると考えます。もうひとつ、学校や教師がルーティン化し、自覚しないままメッセージとして子どもに学ぶように仕向けている「潜在的なカリキュラム」とも言うべきものもカリキュラムのなかに含めて検討する必要があるとも考えました。それは、日本の学校文化というものが、不文律や見えない決まりで、子どもの学習経験をしばってきた歴史や習慣があるからです。これは、学校の閉鎖性、硬直性とか言われるものともつながるものと考えます。そういった状況を転換し、発想を変えるところからカリキュラムづくりがはじまると考えます。
☆key word
地球市民(global citizen)

20世紀前半のまでの近代では、「国民」をアイデンティティの軸とすることが一般的だった。だが核兵器の開発は「人類」共通の意識を生み、環境問題の深刻化は「地球」的な生態系への関心を強めた。また、この「地球は一つ」という意識は、南北ギャップへの関心も高めた。だが国家や企業は、核軍拡競争、経済成長競争という形でこうした地球的問題を引き起こしはしたが、地球的視点で問題解決に取り組む行動主体にはならない。そこで70年代から、地球的視点で行動する主体として「地球市民」が登場する。その意味で「地球市民」とは、昔からあった抽象的・理念的な「世界」「人類」とは違い、物質的条件に迫られ、生存をかけた意識である。ただ、それはまだ意識のレベルであって、行動はローカルに根を持ち、国境を越えるトランスナショナルではあっても一挙にグローバルではない。しかしそうした行動が、国家や「国民」の在り方を変えていくことは間違いない。
(知恵蔵2000.より)
1.カリキュラム改革の視点
 【視点1】

  教職員の意識改革を
 
○ カリキュラムメーカーとしての教職員
 子どもが成長発達するように、教師もまた日々研究と実践を通じ成長発達をしていくべきだと考えます。この教師の実践的力量の研究については、「従来の学級経営や組織論(management and organization)重視の方向に加え、教科指導に関する専門的知識を生かしたわかる授業づくりと教室でのコミュニケーション(understanding and communication)に着目した研究が必要である。」と、シェルマン教授(米国・スタンフォード大学)は述べています。 そして、教師の力量形成上の重要な三要素は、教科内容知識(subject matter content knowledge)・教育的内容知識(pedagogical contentknowledge)・教育課程知識(curricular knowledge)とし、「研究者としての教師」の力量形成を分析しています。
 カリキュラムづくりではこれらを含めて、教師の実践的力量が問われるわけですから、従来の「請け負い」的な発想から脱皮し、「開発」という新しい発想に立ち、専門家としての自覚と力量を高めることが求められています。

○ 教職員集団が問われる
 「教育課程や教科書は与えられるもの」「自分一人が頑張っても何も変わりはしない」という受けとめから、教職員が協同して、学校や地域の実態に対応したカリキュラムをつくっていこうという意識への転換が必要です。
 これは「学校を基礎としたカリキュラム開発(School Bassed Curriculum Development)」ともいわれるところだと思いますが、そこには、教職員がそれぞれ自らの知恵を出し合っていく職場の共同性、同僚性、そして協力性が求められ、希望と展望を持った取り組みが必要です。
 それぞれの学校の教育理念や理想を表現するものがカリキュラムであると受けとめたいと思います。

○ 「総合的な学習の時間」の設置を積極的にとらえよう
 新しく導入される「総合的な学習の時間」は、今までの教科の枠にとらわれるのではなく、各学校で創ることのできる時間であり、「可能性を楽しむ」という積極的なとらえ方が必要です。「総合的に考えること」は学ぶことの必然であり、学びの楽しさを広げるものだと思います。

○ 教科書のない授業と教科書から離陸する授業
 教師の教材研究の力量が形成されていく過程を、澤本和子氏は、例えば国語科では次のようになるといいます。

@ 教科書教材を教えるための教材研究。
A 教材で教えるための、つまり教材を使って、ある教育目的のために、目標を達成するために、教科書教材で教えるための教材研究。
B 教科書教材で教えながら、何かこれだけでは足りないから、発展としてもう一つ教材を使うとか、自分で作ったワークシートを使って発展の学習をするとか、途中に入れてやるとか、つまり、自分で開発した教材を導入する教材研究。
C 自分たちでカリキュラムを開発するための教材研究。
  1単位時間をどうするかから始まり、単元をどうするか、1学期間に何単元計画するか、さらに年間で何単元計画するか、というように次第に全体的なカリキュラムをつくるという展開になっていく。

 「総合的な学習の時間」が設けられたことは、必然的に、私たち教職員は「教科書がない時間」あるいは「教科書から解放される時間」と対峙することになります。このことは、前述の力量形成過程でいえば、いきなりBCのレベルにステップアップすることになるわけです。大変なことですが、創意工夫の余地ができた、子どもの思いを受けとめ子どもへの思いを存分に発揮できる場ができた、ととらえたいと考えます。

○ 条件整備不十分を乗り越えて 
「総合的な学習の時間」に関わる予算・人的配慮はなかなか思うようにいかないのが現状ですが、不十分には不十分なりの対処の方法・工夫が必要です。「もの」がない中での「豊かな教育」づくりに挑戦したいと考えます。
今後、周囲のコンセンサスを得るための方途を探り、条件整備を進める取り組みが重要になってきます。

【視点2】

 
学びの主体としての子ども

○ 学びたがらない子ども
以前より時間的に余裕があると考えられる子どもたちなのに、学校外でも、学習時間は短くなっているという状況が指摘されています。「学力低下論」とも関わって大きな課題となっています。
 学ぶ意味(意義)をとらえかねている子どもの姿も見える中、今まで以上に、子どもたちの「なるほど、そうか」、「分かった」、が引き出せる学びを創りたいものです。


○ 人との関わりが苦手な子ども
家庭では兄弟姉妹(きょうだい)の数は少なく、またバーチャルな状況が多くなる中で、自分だけの世界を作ってしまう子、お互いが傷つかない程度のおつき合いで終始する友達関係など、今の子どもたちは人との関わりが苦手であり、人と関わるのを嫌う傾向があります。
 人と関わり、共に作業をしたり活動をしたりすることがどんなに楽しいことかまたどんなに充実感を味わえるものかといった経験ができるようにしたいものです。

○ 子どもに学びの保障を
子どもは「教えられる存在」である以上に「学ぶ存在」であること、学ぶ場においては「主体」なのだという確認が必要です。
 「学び」にはいろいろな層がありますが、「学びとは変わることだ」と実感できるような取り組みをしたいと考えます。子どもへの学びの保障は教職員の使命です。

○ これからの子どもに培いたいと思われる力
まず、子どもが「自分自身を丸ごと受け入れられる力」をつけられるようにしたいと考えます。
なぜなら、誇れる自分もあり、あまり好きでない自分も自分自身だと認める力、その力を持てるからこそ、そこから考え行動できる力が育てられると考えるからです。
 子どもに培いたいと思う力には次のようなものがあります。

1.自らの課題を見つけ、主体的・創造的に、その課題を解決しようとする力
 @自分の身の回りのことに関心を持つ力
 A自分の身の回りから、課題を見つけだす力
 B自分の考えをきちんと持つ力
C積極的に課題に取り組み、自分で解決しようとする力
2.自分自身を大切にし、自分の意思や考えを表現することができる力
 @自分自身をありのままに受け入れ、大切にすることができる力
 A自分の良さを見つけたり、それを伸ばしていこうとする力
 B自分の生活の中で 楽しみや興味関心のあることを追求していく力
 C自分の意志や願いを、生き生きとまた伸び伸びと表現できる力
3.相手の気持ちを考え、思いやりを持って行動できる力
 @自分自身も大切にしながら、仲間や相手を尊重することができる力
 A個の主張をしながらも、友達と協力し、集団の中で協調できる力
4.基本的な生活習慣を確立する力
 @人の話をしっかり「聞く」ことができる力
 A物事を、集中して最後までやり通すことができる力
 B善悪の判断がしっかりできる力
5.その他(「総合的な学習の内容」と関わって)
 @国際理解に関わって
   異なる文化や習慣を持った人々と、偏見を持たずに自然に交流し、共に生きていくためにはどうしたらよいのかを考え、行動できる力
 A環境に関わって
   今ある環境の保全や、よりよい環境の創造のために自分はどう行動したら良いのか、主体的に判断し行動で  きる力
 B情報に関わって
   あふれる情報の中から、その情報が自分に必要なものかどうか主体的に判断し、取捨選択して活用できる力

 C福祉に関わって
   今持っている自分の力を、他の人や社会のために発揮し、他の人々との共生を図るために行動することがで きる力
 D健康に関わって
   自分の健康を守り、増進させるための知識と意欲を持ち、自立的に健康な生活を創造していく力
 E人権・平和に関わって
   差別や不平等などの実態を知るとともに、そういった状況にある人々に共感できる感性を持ち、「生きる」こと の意味を発見し、共に生きていくためにはどうしたらよいか考え、行動できる力
 F地域・郷土と関わって
  自分の生活している地域の様子や地域の抱えている課題を知り、地域の人々と共に考え、 行動しようとする力
【視点3】

   「開かれた学校」をベースに

開かれた学校
教職員・保護者・地域住民の連携の大切さは、かなり以前から指摘されています。しかし、最近の論が以前と違うのは、子どもを取りまく社会状況の悪化、地域社会の変容、新教育課程における地域社会の協力の必要性、学校でかかえきれない問題の顕在化等でしょう。現在の状況を踏まえて、協力の関係、支援の関係からパートナーシップの関係への「新たな連携」の方途を探る学校にしていきたいものです。

○ 保護者や地域の人々の「学習参加」を
カリキュラムは学校の教育理念を表現し、実現していくものですが、同時に子どもたち・保護者・地域の教育に寄せる希望や要望を反映したものでなければなりません。地域社会の中の豊富な教育材(人材も含む)をカリキュラムの中に生かしていくことが、地域でつくる学校、地域の学校、の基本です。カリキュラム開発への保護者・地域住民の参加、授業参観から学習参加のレベルまでをも志向したいものです。

○ 「特色」が「特色」となるために 
「特色ある学校」という言い方、今回の答申では審議のまとめの段階で新たに追加されたものだそうですが、これは永井順国氏(教育課程審議会委員)によれば、個々の学校が「自分のカリキュラムをデザインできる時代の到来を意味している」といえます。子どもの顔、教職員の顔、地域の顔が反映し、「特色」そのものがおのおのに実感できることが必要です。
☆key word
カリキュラム開発
(curriculumdevelopment)

学校の新しいカリキュラムをつくること。ある程度枠づけられた形での学校の教科内容。構成を編成するcurriculum maikingよりも系統的にカリキュラムをつくる方式を意味する言葉としてアメリカで1930年代に登場した概念。最近は、OECD(経済協力開発機構)等の提唱したSBCD( school-based curriculum development)の考え方に立って使われることが多い。日本では、学校の教育課程自主編成権を求める主張があるが、カリキュラム開発という言葉は、学習指導要領の枠に従わなくても良いというお墨付きをもらった、いわゆる研究開発学校におけるカリキュラムの開発を指すことが多い。
また、学校に自由裁量が認められている部分について創意工夫をこらすこともカリキュラム開発と呼ばれることもある。
(知恵蔵2000.より)

【視点4】
  
  子どもと共に創る
  
○ 権利の主体としての子どもと教職員
 前提となるのは、教職員と子どもが、相互に人として尊重し合う存在であることです。
 教職員のあり方として「支援者」「コーディネーター」「デザイナー」「ディレクター」等いろいろ言われますが、教育の専門家として、周囲の期待や自分自身のポリシーをふまえた上でのカリキュラム開発、授業創りが望まれます。
 その際の基本となるものは、教育基本法と子どもの権利条約です。子どもを権利の主体として認めること、カリキュラムに関しては、子どもが自己決定できるチャンスを広げることが重要です。

○ 「教え、教えられる」から「共に学ぶ」へ
 かつて学校は「文化と知識と情報」を独占していました。子どもから見れば教わることすべてが新鮮で、吸収も非常によい状態でした。今、知識や情報を得ることは学校より外からの方がはるかに多い状況下で、かつてのような「知識注入・暗記重視」タイプの授業を続けていれば、子どもの目に魅力的に映るはずもありません。
 学びへの喜びを見いだし、考え方や総合する力、創造性を養うタイプの授業への転換は絶対に必要なことです。
 特に日本の教師には比較的苦手と思われる、「子どもと共に学び考える」タイプの指導への転換が求められているわけです。
 
○ どこまで子どもに任せられるか
 学びの主体として子どもが育っていくため、カリキュラムづくりや活動(学習)の場面において、子どもたちにどこまで任せられるか、どの程度の参加をしてもらうのか、といった見取りをしていくことが重要です。
 澤本和子氏は、その年度の一年が終わったところで、はじめてカリキュラムは完成すると言っています。

 出発点はまず1時間の授業なんです。1時間の授業をどうするか、今日の授業をどうするか、今日使う教材はそれでいいのか、もしそれで悪いんだったらどうするのか、という話から始まるわけです。そして、それが良かったか悪かったかは、やった後あるいはやっている途中に、教師が自己評価をし、子どもの感想を聞き、到達度をチェックし、その他のいろいろなやりとり−インタラクション(相互作用)−の中からその成果・歩留まりを見守りながらまとめます。
 同時に、プロセスが非常に大事です。心が動くといいますか、「学ぶ」というのはある意味では心が動くことです。非常に興奮することです。分かったら子どもは人に教えたくなり、そういう興奮を友達と分かち合う、喜びを分かち
合う、みんなで共有する、というようなことの設計まで含めて考えていきます。
 授業中とてもすてきな発言があって、「○○ちゃんの言ったことはとてもすてきだからそれについて考えよう」と言って、1時間をそのことに当てれば、そこで使った教材は○○ちゃんの発言なんです。だから何を教材化するというのは、まさにその瞬間瞬間に、教師が選択的に意志決定して、子どもに投げかけ、こどもが「よしそれじゃあそれ一緒にやろう。」ということで合意が成立したところでやっているわけだから、そういうことで言うと、カリキュラムは授業が終わった時点で定まるわけです。教え終わった時点で、「ああ今日の授業はこういうことを、こういうふうにみんなで勉強したんだね。」ということで定まります。 −教育研究所所報「創るNO.4」より−

事前に開発が試みられたカリキュラムは、1時間の授業においてその終わりで定まる、ということですから、1年のカリキュラムが定まるのは、1年が終わったところで定まるといえるわけです。子どもがつくるカリキュラムというのは、どこまで「子どもに任せられるか」につながるものと考えられます。


【視点5】
  
   質的な評価を
 
質的なとらえ方とは
 子どもを「値踏み」することではなく、教師が教育の営みを振りかえり、それをよりよく高めていくところに評価の目的のひとつがあります。
 子どもの姿を、ときに数値により質的にとらえ、具体的な教育実践の過程における子どもの成長の姿がどのようなものであるかについてその意味を理解することが、重要になってきます。 

○ 子どもの意欲・満足度・充足感
子どもがあらゆる部分で自ら高まろうとする意欲を持つような教師側からの働きかけが前提として必要です。活動に対する助言、コメント、促し、支えなど、視野の広がるような示唆も欠かせません。
 それらの働きかけ(助言・コメント)は、子どもが結果として満足感、充足感が得られるための途中の評価であるととらえることができますし、最終の評価は次へのステップの「活力」となるものです。

○ リフレクション(省察・ふりかえり)を 
 その日の出来事や子どもの様子を振り返り、その意味を吟味してみる機会を意識的に持ちましょう。そのことによって一人一人の子どもの具体的な姿を把握できたり、教師自身の思いこみや偏見に気づいたり、さらには、自らの教育観や子ども観を再吟味することなどが可能になります。リフレクションを行う条件を整えることが大切です。
 ○ ポートフォリオの活用を 
 学習成果をできるだけ生の姿で記録し、その積み重ねを子どもの成長の足跡として位置づけましょう。「ポートフォリオ」とは、生の素材の集積であるので、そこに含まれる情報の質も多岐にわたり、情報量も多く、評価する人の考えによって多様な解釈が生み出される可能性があります。「ポートフォリオ」を題材として、教師、子ども、親などが各自の見方を交流させることによって、その子どもの多様な側面や個性的な成長に気づいていく可能性もあります。 

○ 評価のシステムをつくる 
 教師の役割を「評価する者」としての役割に重きを置くのではなく、子ども自身の「生きた経験」をサポートすることを重視したいと考えます。
 子ども自身が学びの主体です。よって、子どもが学びの意味を感じられるようにするためにも、子ども自身が評価の主体となれることをめざしましょう。


○ カリキュラムと結びついた評価を
 本来、学校で行われる評価は、教育活動の点検と修正のためにあります。各学校で編成されているカリキュラムのどこが良かったのか、悪かったのか、改善点はどこか、そうしたことを明らかにしていくことが評価の役割です。
カリキュラムと評価は不可分の関係にあります。両方を同時的に考えていきましょう。





☆key word
ポートフォリオ
(portfolio)

ポートフォリオとは、書類を綴じる紙ばさみのことを指すが、一冊のファイルにして個人の学習の過程や成果をなるべくそのままの姿で記録し収集していくような評価のシステムをいう。
単なる評定の累積記録だけではなく、あらゆる種類の子どもの表現した学習の過程や成果(物語・詩・小論文・レポート・研究ノートなどの文章・演奏・発表などの録音テープ・ビデオテープ・写真・更に絵画・彫刻・模型などを含む)を、できるだけまとめて(例えば立体的なものは写真に撮るなどして)保存しようとするもので、教師のみならず、子ども自身が「全人的」な成長の記録にするための資料として活用することがめざされている。(imidas 別冊など)
2.知の総合としての「総合学習」
   −総合学習をカリキュラム開発の核に−

○ 分科と総合
 日本の学校制度が発足した明治以来、大人がまとめた知識を体系化して、それを年間計画の中で何時間かに区切って教材として子どもに与え、それを覚えさせるということが教育の基本であると考えられてきました。いわゆる分科の教育です。しかし、学力というものは、総合的なものであり、各教科で学んだことを総合する機会・場をつくらなくてはならないのではないかという課題意識は、教育現場に持ち続けられていました。
 総合学習という考え方・発想は、実は明治の後半には既に現われ、大正時代には一部の学校では教育課程に組まれ、それが現在まで引き継がれています。
 戦後まもなく興った問題解決学習、コア・カリキュラム運動は、「系統学習」からの批判によって沈滞してしまった経過がありますが、今日、総合学習が改めてうちだされた中で、再度当時の活動の意味や教師達の情熱を傾けた足跡をたどる必要があります。
 1970年代、日教組は、教育改革試案のなかに「総合学習の時間」を小学校4年生から導入するよう提起していますが、その中で言及した「総合学習の意識」を次のように述べています。
☆key word
コアカリキュラム
(core curriculum)

教科の枠にとらわれないで,生徒の実生活上の問題をcore(核)にすえ、その解決過程を通じて総合的な学習を行う方法。具体的には、「社会の要求」を消費・生産・通信・運輸といった社会的機能に注目して分類したカリキュラムの範囲(スコープ)とし、生徒の生活を身近な問題が、どのようにつながっていくかを系列(シーケンス)で示す。八百屋ごっこ、郵便ごっこなどがcore(コア)となる。
 「総合学習」は、個別的な教科の学習や、学級、学校内外の諸活動で獲得した知識や能力を総合して、地域や国民の現実的諸課題について、協同で学習し、その課程を通して、社会認識と自然認識の統一を深め、認識と行動の不一致をなくし、主権者としての立場の自覚を深めることをめざすものである。

この提案に基づいて、各地で合科という形や特活の中で「地域や国民の現実的な課題」(平和、人権、差別、公害、生命や健康など)として、また、「学校行事や学級の課題」(学芸会、文化祭、修学旅行、友情、性、栽培・飼育など)として、いくつか実践が積み重ねられ、今日「財産」として引き継がれています。
 教育課程審議会では、今回の「総合的な学習の時間」創設の趣旨とねらいについて次のように述べています。
(2)「総合的な学習の時間」
 ア 「総合的な学習の時間」の創設の趣旨
 「総合的な学習の時間」を創設する趣旨は、各学校が地域や学校の実態等に応じて創意工夫を生かして特色ある教育活動を展開できるような時間を確保することである。また、自ら学び自ら考えるなどの[生きる力]は全人的な力であることを踏まえ、国際化や情報化をはじめ社会の変化に主体的に対応できる資質や能力を育成するために教科等の枠を超えた横断的・総合的な学習をより円滑に実施するための時間を確保することである。 我々は、この時間が、自ら学び自ら考える力などの[生きる力]をはぐくむことを目指す今回の教育課程の基準の改善の趣旨を実
現する極めて重要な役割を担うものと考えている。
 イ 「総合的な学習の時間」のねらいや学習活動等について
 (ア)「総合的な学習の時間」のねらいは、各学校の創意工夫を生かした横断的・総合的な学習や児童生徒の興味・関心等に基づく学習などを通じて、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てることである。また、情報の集め方、調べ方、まとめ方、報告や発表・討論の仕方などの学び方やものの考え方を身に付けること、問題の解決や探求活動に主体的、創造的に取り組む態度を育成すること、自己の生き方についての自覚を深めることも大きなねらいの一つとしてあげられよう。これらを通じて、各教科等それぞれで身に付けられた知識や技能などが相互に関連付けられ、深められ児童生徒の中で総合的に働くようになるものと考える。   (以下省略)  

○ なぜ、今、総合学習か
 提案や答申、そして私たちの実践のふりかえりの中から、今「総合学習」に取り組まなければならない理由を4点ほど挙げることができます。
1)教科の枠に納まりきれない現代的課題を教育課題にする必要が出 てきたこと。 
2)各教科の知識がばらばらで、関連づけることなく教えられる教科 分立による閉塞性への不満。
3)教科学習が子どもたちにとって魅力のないものになりつつあると いう点。
4)総合学習は個性化教育を進めるための効果的な教育方法であると いう点。
 それでは、これからの総合学習をどのような視点からとらえ、すすめていくことがよいのでしょうか。3つの視点を紹介します。
1)「初めに子どもありき(何よりもまず子どもの関心・意欲から)」 というもの。
  狭義の総合学習はこれであるといってよいと思います。子どもが自分の日常生活を振り返って何か問題を見つけ、その問題の解決の ためにいろいろ調べたり、仲間と話し合ったり自分で工夫を凝らしたりする、という活動です。
2)「初めに課題ありき(何よりもまず現代的な課題から)」というもの。
  環境教育、福祉教育、平和教育、人権教育、性教育、等様々な形での課題学習がこれにあたるでしょう。
3)「初めに教科ありき(なによりもまず教科から)」というもの。
  これは合科学習と呼ばれる場合もあるが、一つの教科の内容を検討していく中で他の教科の内容の一部と深く関連することが分かったような時に、どちらの教科にもまたがる活動として何か具体的な課題なり活動なりを設定して授業を行う、というものです。


○ たちはだかる課題 
次のような「総合的な学習の時間」に対しての課題や問題点があります。
1)環境、国際理解、人権、情報、福祉などの現代的教育課題は、本来ならば従来の各教科領域を根本から再検討し、そこに取り入れられていくべきにもかかわらず、各教科、領域の内容構成の基本はそのままにして新たな領域を設け、そこに、ごった煮的にそれらを詰め込んでよいのかというカリキュラム論的な疑問。
2)多様な教育課題を扱う領域を、学習者中心に展開していくということの具体的な方法論を検討すると、誰もが自ら取り組むと言うことの実現は非常に困難であり、詳細な活動例が出されるとしたら、学習者の側からの主体的な学習展開という原則と矛盾するという点。
3)「小学校でも英会話」と宣伝された面など。財政的な面でも、人材確保の面でも困難。
 これらのことから、ごく一部の学校の突出した事例からイメージをつくっていくのではなく「普通の」条件を持つ普通の学校で実践可能な現実プランを、ということで考えていくことが必要と考えます。

○ 「総合的な学習の時間」で「総合学習」を
 豊かな人間性につながる「生きる力」を育むため、各教科での学習、教科外での様々な行動、それらの中で獲得された知識や能力を総合していく「知の総合化」をめざす学習が「総合学習」であると考えます。したがって、「総合的な学習の時間」で「総合学習」を創っていくことになります。
○ 立場性の確立を
 総合学習が教科にまたがり、あるいは教科の枠を超えての学習(総合化)になるということは、現実社会にある問題をより直接的にカリキュラムに反映できるという面を持っています。
 総合学習のテーマ(教材)として、どのような課題を取り上げるのか、それをどのような視点で展開していくのかは重要なポイントになります。これは、立場性といえます。
 地球市民として、子どもたちに将来どのように生きてほしいか、どのような「力」を持ってほしいか、今の子どもの学びたいもの、子どもの思いに添うものは何か、を基本とする立場に立つことが求められています。
 

○ 総合学習の取り組み 
 誰が担当するか、誰がするのかという場合ではありません。全教職員による協力体制をつくりましょう。学年内、他学年、他教科との連携、協同が必要です。
 「学校を基盤としたカリキュラム開発」をすすめましょう。
 まず、今までの学校や地域(研究組織)での「蓄積」を振り返りましょう。それとともに「古い発想、古い授業観」を捨て、新しい視点への転換と確立を図りましょう。


○ 総合学習を核としたカリキュラムづくり
 カリキュラムの編成は、目標を立て、内容を決め、子どもの興味・関心を尊重し…、といった単純にして一般的・抽象的な方法で解決されないものが今回は特にあります。それは、内外の条件として、全体の時間数の減少、新たな内容の増加といったことに加えて、「学校裁量」の部分が大きくなったからです。それにカリキュラム編成をめぐって学校、教職員、子ども、保護者、地域住民の希望や要求が交錯することも予想されるからです。
 カリキュラムは「生きている」もの、「可変性」と「弾力性」のあるものととらえ、総合学習を核としたカリキュラムの編成を進めたいと考えます。それは総合学習がカリキュラムの中に含まれることによって、カリキュラムの概念が大きく拡大されると受けとめたからです。


○ 子どもと共に創る総合学習
 目の前の子どもの姿から、教師と子どもが一緒になってカリキュラムを生み出していこうとする姿勢と、ロングスパンで子どもの変容を見取り、子ども一人一人の自己実現を支援していこうとする態度が必要です。
 年間のカリキュラムを固定するのではなく、子どもの実態、子どもをとりまく環境を吟味する事からはじめ、子どものリズムに合わせた時間に設定することも考えていきたいことです。


○ 総合学習と教科
 各教科の学習は繰り返し繰り返し確実に、そのかわり「総合的な学習の時間」では、学び方・問題の解決の学習をじっくりと、という二分法的な関係でとらえるのではない、取り組みが求められます。
 「知の総合化」という総合学習を創る視点で大事にされている教師の視点は、当然教科でも大事にされていかなければならないことです。総合の時間と教科の時間において教職員と子どもの関係が違ってきたのでは、総合が設けられた意味がないともいえます。よって、教科の学習は、これまで以上に子どもたちからの評価の対象になるともいえます。
 教科で身に付いたことが総合で生き、また、総合で身に付いたことが教科で生かされる場の設定が必要です。

☆key word
カリキュラムに関するナショナルセンター

地方公共団体の主体的役割を重視し、国はそれを支援するという観点から、国の教育課程に関する行政は、教育課程の基準の設定とともに、これに基づく各学校の教育課程の実施状況等に関する実証的な調査分析を踏まえた指導・助言等に重点を移すこと。また、これに対応して文部省の業務を基本的なものに精選するとともに、行政改革の観点にも配慮しながら、カリキュラムに関するナショナルセンターの設置について検討すること。同センターでは各学校ににおける様々な取り組みや実践事例等の調査・分析を通じて、学校教育に対する社会的要請や環境の変化等に対応したカリキュラムの在り方について専門的立場から恒常的に研究を行うとともに、教育課程審議会に実証的な調査資料を提出して施策に随時反映させるほか、教育委員会等からの求めに応じて、教科内容や教育方法などに関する専門的立場から効果的な助言や支援を行うものとすること。(中教審「今後の地方教育行政の在り方について」より)

☆key word
 基礎・基本

子どもに修得させる国民に共通に必要とされる基礎的・基本的な内容。1975年10月18日に出された教課審の「教育課程の基準の改善に関する基本方向について」(中間まとめ)で始めて使われだした
   おわりに
 小・中・高への「総合的な学習の時間」の新設は、学校現場からの教育改革の胎動になることを願いたいと思います。「『総合学習指導要領』などが出されたら、この学習はたちまち《いのち》を失う」と言われる方もいます。
 子どもの内側にひそむ様々な可能性の芽は、従来の硬直した意識や授業方法(いうなればあらかじめ用意した型枠)にはめこむことはできません。なぜなら、この学習は盆栽づくりではないからです。
 現代は、印刷物氾濫の時代。多くの「参考書」なるものが出されています。「総合的な学習の時間」の小・中の実践事例集が文部省から出されました。これが、教育現場からの強い要望があったからなのか、この時間が当初のねらいからはずれていくことを未然に防ぐためなのか分かりませんが。事例集を越える、事例集とはちがう、自分の学級、自分の学年、自分の学校独自の実践をめざすこと、それがまさに総合学習だと思います。
 いずれにしても、現場の教職員が、本当に主体的に子どもの側に立って、この時間を創っていこうとするか、その意識改革に「総合学習を生かした新しいカリキュラム」の成否がかかっています。

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