授業リフレクションのすすめ

 

山梨県教育研究所カリキュラム開発研究委員会

共同研究者 澤本和子(日本女子大学)

アイスランドを訪ねて


私は実はこの夏休みの初めのちょうど7月の24日から10日ばかりですが、アイスランドという世界地図でいうと一番北のほうにある、グリーンランドのすぐ南側にある島の国ですが、そこに行ってきました。一生行くことないかなと思っていたのですが、高校時代の親友が向こうの人と結婚しておりまして、10年ほど前に大病を患いましたが無事に生還して、元気になったので会いたいということで行ってきました。来るなら今というようなことで、条件を無視して無理やり日程を空けて行ってしまいました。帰ってからが留守にしていた時の仕事でふうふう言っていますが、行ってみて本当によかったと思っています。

それはもちろん友人に会えたという人間的な交流の重さもありますが、その他にもあります。今まで私もたいした数の国に行ってはいないのですが、ここのところ毎年仕事の関係で海外に出て向こうの人と一緒に研究をしたりしているわけです。けれども、そういう形で訪れたどこの国とも違う、本当に北に位置した小さな島で、しかも人口が全体で27万しかいない国で暮らしている人たちの様子に、短い期間ですが触れることができて本当によかったなというか、生きていてよかったという感じを持ちました。

 

近未来の地球破壊物?

それは何なのかということをいくつか考えた時に、1つはこういうことです。首都はレイキャビクという町なんですが、そこから車で時速120キロくらいで1時間くらいとばした所に、ケプラクラークという飛行場があります。その飛行場に降り立ちますと周り中が全部溶岩の岩の原っぱなんです。360度全部これなのです。ですからなんだか近未来の地球破滅のアニメーションの世界です。そこに下でマグマがこう騒いでいる土地ですから、吹きだした煙や湯気がどんどん上っている個所があったりして、そのそばに地熱発電所といって地熱を使った発電所がポコッとあるのです。それも近未来のアニメーションみたいな格好の建物で、およそ人間的なふうじゃないのです。そういう場所ですから風も強い。何しろちょっと風が吹けばすぐ強風になってしまって、樹木という物がなにしろ見渡す限りただの一本もありません。こういうところがあるものかと思いまして、まあ南極や北極じゃないですから。人が住んでいる所ですから、驚いたわけです。そこを車でレイキャビクの町の方に入って行きます。するとだんだん人家がありまして、家があるところの周りには木が植わっているのですね。あちらの人に訊きましたら、本当に努力して植えないと木を育てることができないと言うのです。私のうちの庭なんか鳥がいっぱい周りでお土産を置いて行ってくれるものですから、いろいろな物が生えてきまして、この夏などは放っておいたらもう雑草だらけで足の踏み場もないというようなことになるわけです。日本というのは比較的生命が生い立ち易いところで、そういう恵みのある国なんだなということを非常に強く感じました。放っておいたら、こけは結構生えてるんですが、それ以外のほとんどの物がなかなか自然には育たないという地域なのです。そしてお話によりますと、10年位前にその地熱を使ったグラスハウスやビニールハウスで野菜を作るようになるまでは、半年以上の間の期間ほとんど野菜類というのは食べられない、全部輸入物に頼るしかないというそういうお国柄だそうです。そういう国に降り立ちました。

 

自然と関わり合う家庭を大切にする生活

レイキャビクの町の人々は非常にすばらしいモダンな綺麗な、ある意味ではうちなんかよりよっぽどハイソサエティな生活水準で暮らしているのです。行きましたら、私たちの友だちの隣の家のご主人が屋根に登って何かやっているので、訊きましたら屋根を葺きなおしていると。家を建てたりするのもみんなご自分でなさるそうです。土台のところを作ったりもして。もちろん大工さんを頼むんですが一番難しいところだけを大工さんが主にやって、後はみんな週末だとか休暇を使って建てるのを協力したり、あるいはメンテナンスはほとんどもう自力でやるということなのです。人口の少ない国なので、あるいは寒さが厳しいので、年がら年中直さなきゃいけないということがあります。私のお世話になった家のご主人も、私たちの到着にあわせて夏休みを取って庭を全部直したということで、とっても綺麗な庭に私たちはお邪魔したわけです。人間が生活するという事を考えた時に、一つは放っておいたら自然にあっという間に制圧されてしまう。自然の力が非常に強いところで、いろいろな科学の力を駆使して、自然と調整を取りながら、人間らしい生活を絶えず努力して維持している人たちがいるのだということを感じました。また、そういう生活の中から、ごくあたりまえのように日本で暮らしている私たちが、お金さえ払えば簡単に手にいれられるという形で片付けてしまっているいろいろな物を、自分たちの手で作っているという生活に再会したという感じです。ある意味では再会しているわけですが、私たちが子どもの頃に経験した以上に厳しい条件の中でそれをしている人たちというかそういう出会いをさせてもらいまして、人間が生きていくという事について、改めて非常に強い印象をもたせてもらいました。

そこでもいろいろ若者の問題やら教育の問題やらあるようですけれども、しかし基本的にそこの家の子どもたちもそうだったのですが、若者、大学生や卒業した若者たちが例えば週末遊びに行くという時に、もちろん映画を観にいくとか音楽を聴きにいくとかそういうものもありますが、その他に夏休みなどはやはり家族で山の方にこもって山登りをしたり、地熱の大変盛んなところで氷河だらけの国ですから、氷河の中を歩いたりスノーモービルで上まで上ったりとかそういう事をやるわけです。けれども、そういう自然と関わり合う生活が日常的にあるという事を考えると、この日本の子どもが置かれている状況と比較して、やっぱり決定的に違うなと。何かが決定的に違うなということを強く感じました。

 

消費から生み出す学びへ

もう今から30年近く前ですけれども、私は小学校に赴任いたしまして子どもたちと生活をともにするなかで一番強く感じたのは次のようにパターン化した作文でした。子どもたちに日曜日のことを作文に書いてもらうと「昨日はお母様とデパートに行ってお買い物をしました。〜を買ってもらいました。お食事はレストランで食べました。」みたいなね。「お父さんもいたのでお父さんといっしょに食べました。」という作文で。この子どもたちの生活に消費はあるのだけれども何かを生み育てると言うのですか、生産する、そういう機会はどこにあるのだろうかと。何かを作り出す、クリエイトする機会はこの子どもたちの生活のどこにあるのだろうかと。そういうことを非常に強く感じました。そこで、たまたま実験的な学校でしたのでいろいろカリキュラムを創るということをやった時に、何しろ放っておけば学校教育ももっぱら消費なのです。消費する事ばっかりやっているわけです。例えばプリントもそうですけど、先生が用意してくれたワークシートを配られて、子どもはそれに何か書くと。自分たちが何か生み出すんじゃなくて、いつも与えられてそれを消費する。それで与えられた物について、あれはいかんこれはいかんというような形で対応するような生活のしかたを、枠組みとして大人が与えているのではないかということを感じまして、何しろどんな小さなことでも、作る、育てる、生み出すということをやろうと思いました。そして、その総合学習では先生方から見たらほんとに素朴なこと、例えば「かいわれ大根」みたいな手軽な物から始めましてね、いろいろ育てるとか、紙だったら一枚の紙からどんな物が作れるのかみんなで工夫して作ってみようだとか、そういう形で、何かを生み出すという体験をたくさん子どもにしてもらって、その体験を通して考えたり感じたり仲間と出会ったり、そういう形で展開していくような学校生活を組織しました。それから保護者にもなるべく呼びかけて、家庭というのは大体現代では消費単位として想定されていますので、単なる消費単位ではなくて家庭で何か創造的な営みができないのかということを考えていただいて、それに子どもを参加させる。まあ今ので言うと「参画」ということです。初め参加していただいて、それから参画していって役割認識を持たせて責任をもってその分担を果たすというようなことになっていくと思うのですが、やはりそういう生み出すという行為を通して初めて人は人の役に立っているとか、誰かのために何かをしているということになっていくわけですから、消費者として生活している限りは、私たちが求めているような人間らしい、いろいろな心情とか物の見方や考え方というようなことは育たないのではないかということで、そういうことをカリキュラム創りや学校運営ということで考えてやってきました。

 

ポストモダニズムの裏と表の間で

結果として今になってその問題を考えると、いわゆるポストモダニズムなんていう言い方でわけのわからない、非常に難しい論争みたいなことが今起こっているわけですけれども、このモダンというのは近代ということです。近代ということを考えると、世の中を進歩という概念で、例えば何か機械を生み出せばそれをどんどん改善して短い時間でたくさんいい物が作れるような、そういうシステムを近代社会は作ってきたわけですね。そういう中で能率とか効率ということが追求されていたわけですが、作り出した製品を消費させなければならないというのは、企業にとって絶対的な使命でしたので、結局消費をあおるということがあったわけですね。だからそれはある意味モダニズムの裏と表なわけで、消費を奨励するというような世の中の風潮があったと思うのです。ですから私自身実践家として生み出す機会がないことに対して痛切な思いを抱いたあの頃、ちょうど一番消費をあおっていた時代だったなあと、こうふり返ると思います。

そういうことで言うと、そのアイスランドに行ってみますと自然状況が厳しいですから、ただ消費するだけでは暮らせないようになっています。それから人口が少ないですから、そんなことを言ったって自分でやらなければ間に合わないわけですね。人頼みというわけにはいかないわけで。そういうようなことで日本とは非常に条件が違う国であったおかげで、いろいろなことについて、私も感じさせてもらうことができたわけです。今でも日本にいれば消費中心の生活で、お金さえあれば多分まかなえることができます。そこで、多くの親はやっぱり子どもに苦労させまいと思って相変わらず消費中心の生活を組んで、そしてそれが維持できるように、例えば学力をつけていい学校に行かせるということであるのだと思うのですが、今までの消費生活を続けていけるようにしています。そのポストモダンということで、近代化を批判する考え方の人の中には「進歩ということについて、もう疑念を持たなければいけない」ということを言う人がいて、これ私も非常に共感する部分もあるのですが、全面的に賛成というわけではありません。しかし、その部分に関しては共感する部分がありまして、つまりどういうことかといいますと、コンピュータを日頃使っていて、私はワープロぐらいしか使えない無能なコンピュータ使用者なのですが、しかしそれでも速度がちょっとでも速くなるというと、やっぱりじゃあお金があれば買い換えたいと思ったり、色が綺麗だとかこういう機能があるとかというと買い換えたりしたいと。値段もちょっと足せばすむだけだとか、ほとんど同じだとかというと、そういうことになりますね。結局少しでも楽にいい物を買うという形で追いかけていく心理というのは、まさに進歩を追及するというモダニズムの近代化の考え方だと思うのです。

それが今の私たちの豊かな生活を支えてくれているわけですが、しかしじゃあちょっと便利だからといって買った時に今まで使っていた機械はどうするのかということを立ち止まって考える。それで、おそらく10年後くらいには日本はコンピュータの捨て場に困る国になるのではないかという心配があるわけです。何しろ今政府はどんどん買い上げて配るということをやっているわけですから、今入れた機械は10年後にはごみになっている可能性が高いわけです。そうしてそのごみの処理という事を考えないで今はやっている。しかし、このさっきの進歩に対する反省的な立場で言うと、そのバランスをどうとるのか。この場合はごみの処理をどうするのかということも考えながらやっていかなければいけないのではないかというようなことがでてきます。

一方、最近のアメリカの議論では人工授精用に親の希望で不妊治療用に用意しておいた受精卵ですね。人間の赤ちゃんが生まれる可能性をそれはもっているわけですが、そういうもので赤ちゃんが無事に生まれた後、余っている物があります。それは冷凍したままで保存してあるわけですが、それはどうするかと。心理的に考えても捨てるということには抵抗がある。それではそれを科学的な研究に使ってはどうかということで、実際どうも使われ始めているらしいです。そういうこともいろいろな医学の進歩とか、いろいろなことを銘打っているわけです。おそらく私はいろいろな批判があってもアメリカはやるのじゃないかと思うのです。

そういうかたちでそれもある種の進歩の追求の線の上にあることだと思います。こういったことが次々次々これから起こってくる中で一体どう考えていくのかという時に、やっぱり全体を見てバランスをとりながらこういう事については禁欲する、これについては追求する、というような物の考え方、見方というのが、どうしても必要になるのではないかと思います。もうごみの捨て場がなくなってしまうから今はどうしようかという話になっているわけです。つまりそうなるまではみんな放ってあるのです。あっちもこっちも。それで日本は今経済的に大変な状況になっているわけですけれども、そういうことをもう止めて、やっぱりいろいろな事について興味を持って、その実態ということを認識して、その中で自分たちの進む道を選択していかなければならないところまで、もう煮詰まってきているのではないかと思います。

アイスランドについてくわしく勉強すれば、それはそれでいろいろな問題が出てくるのかもしれないですが、私自身のそういう出会いの体験から見ると、日本の私たちの生活よりもある意味でははるかに、物というのは制限もありますしシンプルな生活をしているわけですね。ある部分については禁欲的な生活をしていて、ある部分については非常に豊かな生活をしていると捉えられると思うのです。

そういうことについて、消費ということについて、日本は最先端の国なのですね。日本で先生方が体験していらっしゃるもので、外国に行って劣っているというようなものは、文化的というか文明的な事については、ほとんどないと私は思っています。例えば流行のポップミュージックだとか絵だとかマシンだとか、そういうことに関しては、何しろ日本は世界で一番便利で文明の進んだ国です。手に入れる物もお金さえあれば簡単な国なのですね。何でもすぐ手に入る。ただ必要なのはお金なのです。日本人というのは有能ですから、ある意味では突き詰めてしまったわけです。その一番突き詰めてしまった時点で、どうしようかという話なのではないかと思います。

 

消費文化と学校教育

そういうような状況の中でこれからの学校というのは何をするところなのかどうしていくのかということを考える、これ非常に難しい問題ですね。それからそういう消費する快楽を「おぎゃあ」と生まれた時からずーっとそれに漬かって育ってきた子どもたちにとって、そういう快楽に比べたら、ある意味では学校の勉強なんてつまらないものです。ですからそういうつまらない勉強を我慢しなきゃ、人と一緒にはいられません、40人もの人と。私たちだっていきなりですね、そこに押し込められて40人でいっしょに仲良くしなさいなんて言われても大人の方がよっぽど大変じゃないかと思いますね。気が合わない人とかね、具合が悪くなる人も出るかもしれません。

そういうことを考えると、学校の条件を、子どもの主観ということで考えてみると、昔の子どもが置かれている条件よりも、はるかに居心地のよくない状況なのではないかと。昔は結構家庭が厳しかったから、学校に行くと友だちがいて楽しいとか、家にいると親に怒鳴られるとか、仕事をいいつけられるとか、いろいろそういう理由があって、学校が楽しい場所だったという条件があったのです。ですが、今は学校の方がしんどい条件がある可能性があります。

そういう中で子どもにとって魅力的でしかも本当にこれから生きていくうえで必要な物、能力を育てていきたいと考えた時に、学校はどうすればいいのかというのは非常に困難な問題だというふうに私は感じています。だから先生方が指導についていろいろお悩みを持ち、どうしたらいいかということでこう考えていらっしゃるというのは、ある意味ではそういう厳しい状況があって、すぐ、昔はよかったという話をする大先生とかがいらっしゃいますが、確かに昔はよかったのかもしれません。けれども、現実は今こういう状況ですので、その中でどういう形で打開していくのかということを考えざるを得ないと思うのです。

それからもう一方では昔にはなかったもので、今ある良さというものもたくさんあるわけですから、そういうものを活かした対応策というのを考えることも必要ではないかと。それで、一番、そうですね三世代ぐらい前までの授業のあり方と、今の授業のあり方で違ってきていることはどういうことかというと、一つはやはり学校の権威で子どもたちに勉強をさせるということがもう難しくなってきている。それから親も学校が言うからとか、先生が言うからということで鵜呑みにして聞かない状況があります。

それでも山梨は大都市部に比べれば比較的安定して先生方も指導しやすい状況だと感じますが、それですらいつまで続くかわからない状況だと思います。そういう中でやっぱり学校も変わらざるを得ないというのが、ここのところ、ずっといくつも続けて文科省が打ち出してきている政策だと思うのです。つまり学ぶことが大事だとか、学習者を中心にとか、教師は支援しなさいとかいうのが、そういうことだと思うのですが。

こういうことについて組合ですとか、民間の団体は昔から言っている人たち、先生たちもそうですし、親もそうですし、たくさんいたわけですけれども、今そういう昔の条件と一番違うところは、今最初にお話ししたような形で消費する生活が、もう子どもにとってほとんど全てのようになってしまっているという事です。文化をただ消費するだけで物質を消費するだけで生み出さない子ども。生み出さない方が楽ちんですから、そうすると死ぬまで消費者でいたいというふうに思いますね。お金さえあればそれが出来るわけですよ。そうすると子どもの読む漫画などもそうですけど、そういう願望を聞くと、お金持ちの連れあいと結婚して、お金持ちの親と一緒に暮らして、その遺産をもらって死ぬまで安直に消費して生活するという生活設計が一番ラッキーということになるわけですよね。やっぱりこれは恐ろしいことだと思うのです。これは都会ではかなり浸透していると思うのです。そういう価値観というものと、やっぱり学校は闘わなくてはならない。先生方は闘わなくてはならない。その時にどういうふうにやっていくか、というのが非常に難しいところです。

 

創造的な機能を持つ学び

取り巻く厳しい状況の中でどうやって授業の力を付けようかという話で、今まで私もこうやっていらっしゃる先生方、特に宇野五千雄先生(元御坂中)や望月眞先生(中富中)とはずっとご一緒していましたので、繰り返しいろいろな事を話してきました。それで、これからお話しするところは重なるところも多いかと思うのですが、お聞きいただいたことのある先生方にはちょっと辛抱していただいて、多少重複を恐れずお話ししたいと思うのです。

今お話した、与えられて消費するのが当たり前という生活をしている子どもたちが学校にきて勉強すると、授業を受けるという場合に、その子たちを中心にその子たちがやりたいようにというやり方ですれば、やっぱり子どもは今まで自分が経験したことから発想しますから、当然消費中心の快楽中心の発想で、こういう事をしたいとか、ああいう事したいというふうに言って来る可能性があるわけです。

ただ家庭は様々ですから、その中できちんと親が配慮してそういう生産的な、生み出す、あるいは我慢した先に見いだす喜びというものを、ちゃんと経験して獲得している子どもたちがいるわけですから、そういう子どもたちがそういう提案をしてくれるということ。それがまた集団の良さですね。やっぱりそういう子どもたちの提案をどういう形で生かしていくかとか、そういう問題が非常に大きくあると思うのです。

私が今日お配りした資料の裏側の左側の方、『学びを生み出す授業づくり』ということでそこ書かせていただいたのですが、学ぶということが、その知識をただ覚え込むとか記憶するとか、教わるというような形の学びにとどまるのではなくて、やはりそこから生み出すという、クリエイションするというその創造的な機能を持つというのが、これからの学びで非常に重要なところだと思うのです。

そうすると、先生が完璧な知識を身につけていて、あるいは技能を身につけていて、それを教え込むという教え方ではやっぱり本格的な意味の創造になりません。暗記することも、ある意味では創造的な部分があるのかもしれないのですが、やはりそこを自分なりに工夫してとか、仲間と相談していくとかという形で作り出していくということが非常に重要なのではないかと思います。

その時に生み出すという仕事は本当のところは結構苦しいことです。しんどくて苦しいことですが、生み出した後には大きな喜びがあるわけで、それを梶田叡一先生(京都ノートルダム女子大学)は至高体験とかpeak experienceとおっしゃって、これは一生のうちにそう何度も味わうわけではないけれども、一度でも体験すれば一生忘れられない貴重な記憶として心にとどまるので、その後の何か行動する時の促しになる、意欲を持つことになるということをおっしゃっているわけです。ですから、そういう価値ある学習体験、学び体験を出来ればなるべくたくさんですけれども、少なくとも何しろきっちりと子どもにしてもらって、そこで学ぶことに対して前向きにとらえられる、そういう人になってほしいという願いがあります。

では、そういうところで、どういうふうにしようかということですが、そこ(資料)に『子どもが生きる授業』という言い方で、私は書いてます。これは教育界におけるレトリックですね。子どもが生きるなどと言っても何になるのか全然わからない。これはよく言うのですが、子どもの目の高さでとか、先生たちのレトリック、そういうの好きなのですが、しかし、じゃあそれは床上何センチですかと学生は訊きます。答えられません。『子どもが生きる授業』もそうですね。何なのだか全然訳わからない。ただ感覚的にみんな先生たちが、良いと思える授業を見ると「う〜ん、子どもが生かされていた。」とかそのような感じで共感し合ってしまうというのがあるわけです。

そこで、私なりに考えてみたのがそこ(資料)の表1の下のa〜dのことです。『楽しい、おもしろいと思える』『興味・関心がもてる、意欲がわく』『わかる・できるようになる』『仲間や先生たちと関わり、絆を結ぶ』で、こういう言い方でしか説明できないというのが残念ですけども、しかし子どもがやっぱり自分で学ぶ機会があるというか、そこの教室にいてよかった、この授業を先生や仲間と一緒に授業をやってよかったと感じられるということが『子どもが生きる授業』ではないかと思います。

しかし、楽しい、面白い、いてよかったと感じても、実はほとんど何にも学んでいない場合もありうるわけです。これが恐ろしいところで、だからそこのところはやっぱり、子どもはそれでいいのですけれど、教師はやっぱりだめで、そこの歩留まりは見極めなければならない。何をどこまで学んだかということについて、きっちり、盛り上がった雰囲気で子どもとある種の喜びを分かち合いながらも、同時に醒めたまなざしで、きっちりどの子はどこまでどういう質の学びを、というのは見極めなければならない。それを保障して初めて『生きる』というふうに言えるのではないかと思います。何も学んでなくてただ楽しいだけだったらやっぱり本当に『生きてる』ことにはならないのではないでしょうか。それは時間を浪費しているにすぎない。消費しているにすぎない。だからそれだったら結局消費なんだと。やっぱり生産、産み出す、作り出すということになると、子どもはそこで確かに何かを学びとったり、新しい知恵を生み出したりしていることではないかと思います。それから今まで気づかなかった新しい感覚的な世界に一歩踏み出している。そういうことではないでしょうか。

 

主導権を子どもに渡す

こういうことを保障するために私自身は自分が非常にへたくそな教師だったものですから、どうやって授業を直そうかと悪戦苦闘しました。自分が主人公になって必死になって教えこんでいる間は全然授業がうまくいかなかったのですが、子どもたちにそういういろいろな授業の主導権を渡すということを始めた時に、授業がスムースに運ぶようになってきました。

それはやっぱり渡すというのは、いきなりぽんと渡せません。例えば日直が司会進行をする授業、板書をする授業は、当然日直が指名してもまかなえるような学級づくりというものをしなければなりません。指名の順序だとか、板書の仕方についても子どもでも書けるようなやり方を、教師が最初にある程度モデルを示していくということになります。私の場合は子どもの発言を中心に板書構成していきますので、子どもが言ったことを黒板に書くということなので、日直の子どもに板書をわたす時に、子どもも他の友だちが言ったことを書けば良いわけですから、スムースに移行できました。

それから指名も座席順氏名でいってつまったら「手を上げて答えたい友だちに聞いてもいい?」とつまった子に訊いて、その子がこっくりしたら他の子に「じゃあ手を挙げて答えたい人教えて」ということで当てて聞くことにしました。それは日直の子も同じようにしまして座席順に聞いていって、つまったらその子に「いい?」とかいうふうに聞けばいいわけです。そういう形で教師がある程度モデルを示して、それをちょっと手直しすれば子どもでもやれるという形に展開していく。こういった形で授業のいろいろなテクニックを、学習者側といわれている子どもたちにもいわゆる指導のテクニックを伝えていくと、そのことによってそういう今まで教師専用のテクニックだったものを、子どもが自分たちの授業を組織するということで、やって行く形にスイッチしていったわけです。

そういうことによって、教師は子どもたちの前でいろいろ大暴れしないで済むようになります。子どもが前でやってくれますので、それを横で見ながらいろいろサポートすることができます。サポートする役回りの方が他の子どもの動きもよく見えることがいっぱいあるわけですね。教師の仕事というのが学習環境の設定という所に非常に大きな役割があるのだと。何しろ自分が前で仕切るわけにいきませんので、困った困ったとか、いらいらしていてもなにしろ司会の日直の子に任せざるを得ませんので、司会の日直は力の強い子もなれば力の弱い子もなりますので、そういう時に力の弱い子がやっても、そこそこ何とかまわるような設定ということを常に考えなくてはなりません。

 

授業ルーチン

さっきお話したような授業の約束事、「授業ルーチン」と言いますが、この授業ルーチンを、質のいいルーチンを伝えていくということがでてきます。この授業ルーチンの研究は、またこれはこれで日本女子大学にいる吉崎静夫さん研究したものが、本(「デザイナーとしての教師・アクターとしての教師」1997 金子書房)にもなっていますが、大体新しく学級を担任した時に4月の始めの新学期から1ヶ月くらいに教える教師が指導するルーチンは、日本全国あるいは外国も含めて、かなり共通的なのですね。例えばチャイムが鳴ったら席に着きなさいとか、教科書を出しなさいとか、筆箱をだしなさい、ノートを開きなさいとか。そういう誰でも指導しなくてはならないそういうルーチンなのだそうです。それから、2ヶ月目くらいからだんだんその先生の考えている信念、教師の信念というのですけれど、教師の信念とか授業モデル、どういう授業を理想とするかとか、そういう教師の価値観、考え方に基づいた、その先生特有のルーチンの指導というのがここ2ヶ月目くらいから始まります。これはやっぱりいろいろ複雑なものになります。それで夏休み前までが一番ピークで夏休みの後に学期の始めにまた戻ります。新学期の状態に戻るのです。それでまたそこからおさらいすることになります。これは半月くらいで戻るのですが、その辺また共通的なのですが、夏休みに忘れる時に一番忘れやすいのが、その先生固有の複雑なルーチンです。だからこれは定着させるのが非常に難しいわけです。そのように子どもが授業を進める時のルーチンは複雑ですので、かなり教師は根気強く指導しないとなかなか定着が難しいことになります。

今、東京の学校は地域によっては2年持ち上がることは困難という地域もあるそうです。だから1年で全員とっかえみたいな学校もあるそうで、こういう状態だと授業ルーチンは大変しんどくなりますね。私の場合は、非常に難しい学年といわれる学年を受け持ちました。誰も担任希望者がいなかったので4年間持ち上がりました。結果的には、まあその場合は非常にある意味では授業ルーチンに関してはスムースにできました。3年生くらいからほとんど子どもたちが自由に授業をやっていくというようなことが可能です。ですから、ある程度継続して指導ができる教師との人間関係や、友人との仲間関係の安定した状況で出来るということは重要な部分ですね。しかし他方の条件で、1年しかもてない、たまたまですが、ある学校では、親が直訴してきてその学年の担任が全員入れ替わったという例もあります。1クラスで座れない子が1人2人じゃないんですね。6人7人とかいて、それが各クラスにいるので、授業中に全然知らない、よその子が教室を覗いたりするそうです。このような状況になっているようです。そうするともう授業ルーチンの確立は、非常に難しくなりますね。それで、何しろこのあたりのところが、非常に難しいのですが、そういう中での環境設定ということで、今極めて困難なのです。

 

人という学習環境

環境設定ということを考えると、私は『学びを開くレトリック 学習環境としての教師』という本(「学びをひらくレトリック −学習環境としての教師−」 1996 金子書房)の中で、自分の考えや実践を書きました。教師が配慮する学習環境があるのですが、もちろん教材教具というのは重要な物ですし、学校そのもののいろいろな条件があるわけですが、その中でやっぱり人間関係ですね。『人』という環境、『場』という環境、『時間』という環境。この本ではこの3つを教師の環境設定の時によく配慮する必要があるものとして取り上げました。そして、その中でも特に重要視されているのが、いろいろな学者が言っていますし、私もそう思いますし、たぶん先生方もそれを一番重視してらっしゃると思うのですが、これが『人』という要素ですね。人という学習環境です。

特に低学年では担任の先生というのは決定的に大きな学習環境、significant  otherなんて言い方をするわけですが、「重要なる隣人」「大切な隣人」ということですけど、子どもにとってすぐ横にいてくれて、困った時には相談に乗ってもらったということも含めて、重要な隣人であるところの教師の存在ということが環境として非常に重要です。それから、学習の方法ですとか、話し方、言葉の使い方、人間に対する接し方、環境としての教師の影響力というのは計り知れないものがあります。そういうことで先生方も担任されたらまず一番初めに気を使うことは、子どもとの絆を結ぶということでしょうし、子ども同士の人間関係がスムースに運ぶようにといういろいろなご指導があるのじゃないでしょうか。

空間という事は、いろいろな教室の場の設定をどうするかとかですね。日本の場合は規格化された教室の広さでやっていますけれども、本当は例えば40人学級だったらですね、これよりももう一回りぐらい大きいぐらいの部屋があって40人が全員座れる机とそれからすぐ床に座ったり個別学習が出来たりするような空間が、同じ教室の中に設定されていたりして、コンピュータなども入っていて、簡単な教材教具や必要な学習用具などがそこに置かれているといいですね。アメリカやイギリスの学校でそれを見ました。

大体子どもが物をいちいち学校に持ってこなくても済むような設定になっていれば、忘れ物で怒る必要もないし、忘れ物表で×××(ばつばつばつ)とかつける必要もないし、忘れる子がいるのではないかと思っていろいろな事を用意しておく必要もないわけです。だから日本の学というのは、昔からのやり方をそのままずっと100年持ち続けてきてしまっているのですが、外国の学校に行ったら、例えばアメリカなどはほとんど子どもは物を持ってこないで済むようになっています。この部屋に入ったらこの部屋で全部処理できるようになっているわけですね。だからそういう発想の切り替えも必要かもしれません。

これは空間設定のところにはいってきますね。狭い教室に詰め込という発想を改めるか、今は空き教室がいろいろできていますから、壁なんか取払ってもらって、いろいろな形態で先生が指導できるようにすれば、その学習特性に合わせてピックアップして、その子どもたちを集めて車座で座って指導するとか、いろいろなことが考えられるわけです。

 

レパートリーを持つ教師

多様な指導が可能になると、当然教師がどういうレパートリーを持っているかが問題になります。これもいつもいつも言うことなのですが、夕ご飯のメニューで何が出来るということで、カレーライスとハンバーグとスパゲティしか作れない場合、子どもが病気でおなか壊している時でもカレーライスかハンバーグかスパゲティしか食べさせられない。コンビニエンスストアーに行けばおかゆも売っていますけれども、出来れば誰かに作ってもらいたいということであれば、そういうことになってしまう。、教師も同じで「これ今まずい」と気が付いても「これなんとかしなくちゃ」と気づいても、レパートリーがないとできないのです。だから教師にとってレパートリーというのは非常に重要なのです。

今「総合」とかいろいろ入ってきていろいろなことをやろうとする時に、決まった規格の教室に全員座らせて同じような指導をいくらベテランでも、30年間やり続けてきたという先生の場合、レパートリーが限定されているわけですから、これをいきなりそういうオープンスペースとか、空き教室使ってとか言われても困るわけです。やっぱりそこで教師が自分のレパートリーを広げる機会を、これは特に管理職の先生方ですけれども、設定ということについて、お役所の先生方にもですけれど、考えてもらいたい。これは教師の研修ということを考えてもそうですね。今、少人数の学級は結構増えてますね。1クラスが20何人しかいないとかですね。20何人しかいないのに40人と同じやり方で教えていたらもったいないですね。せっかく40人分の教室を20何人あるいは10何人で使っているのですから、これは10何人向きの教室設定ということを考えたい。だからそれは別に総合学習でなくても、どの授業でもそういうことは言えると思うのです。時間の使い方に関しても同じことが言えます。まあそういうようなことで学ぶという事を、授業という物を、みんなで協力して「生み出す・作り出す物」なのだという形で捉えていく。

 

学習者・保護者の義務と責任と尊重

そうすると、今学校の責任、教師の責任という事をやたら言われて、アカウンタビリティ(accountability)の問題、説明責任ということを言われるのですけれど、私は今いろいろなところに行って言い始めているのですけれども、これはどういうことかというと、これからは「学習者の責任」とか「保護者の責任」というのも出てくるのではないかと思います。つまり先生や学校が一方的に教え込む時代は授業がうまくいかなくて子どもの学力がつかないのは先生の責任であり、行政の責任ですけれど、子どもが自分の意見や希望をいって授業を組むことに対して参加する。それから親もそういう意向を学校に対していろいろ言うわけですから、そうだったら言った分の責任はあるだろうというわけです。子どもが授業主体として授業に加わるならば、子どもにも学習者として仲間の学びを邪魔しないとか、一緒にいい学びを組織する責任があるだろうと考えるのです。そういう考え方をこれからやっぱり採っていく必要があるのじゃないかと思います。

これは実はあまり先生方に言ってもしょうがないのですが、親に本当は言いたいことで、何しろお母さんたちにですね、自分の子どもが学校に行った時に良き学習者として学べるように、家庭での生活について責任を持つという事が必要ではないのでしょうか。例えば先生の話はしっかり聞くとか、友だちの勉強の邪魔をしないというようなことが一番消極的な部分でありますが。

ある地域の先生の話によりますと、3千円渡して、お母さんが何日も帰ってこないという話を聞きました。お母さんと2人だけの家庭なのです。だからその子は、夜になるとコンビニエンスストアーに行っておにぎりを1個とか2個とか買って、家でそれを食べる。つまり食事は1人で食べる、そういう生活をしていると。そういう状態でお母さんがいない3日間なり5日間なりを暮らしているわけですから、夜はふらふらしたりして、学校にきて問題を起こすわけです。学校の給食が唯一のまっとうな食事というわけです。これは独身の先生にもそういう先生がいらっしゃいますけども、しかしそれは子どもになると深刻です。

ですからそういう子どもだとか、夜遅くまでゲームをやっていて朝学校に来たら眠くて眠くてしょうがないというような子ども。そういう子どもは、やっぱり学習に積極的に参加するような条件が、家庭生活によって阻害されているわけですから、そういうことのケアをきちっと親に要求する。社会が要求する。あるいは学校が要求する。ということがあって良いのではないかと私は考え始めています。そうではないとそういうことをした子どもが「授業をああせい、こうせい」と自分に都合のいいようなことを言って、それが意見だというようなことではとんでもないということなのです。やはりそのあたりのことを、これから社会的な合意として、作っていくというか、形成していくことが非常に重要になっていくのではないかなと思います。

「学ぶ主体としての子ども」という事は決して子どもを甘やかすことではないということです。子どもを大事にし尊重すると同時に、子どもには学習者としての義務や責任を求めることであり、その子どもを送り出す家庭に対しても、そういう子どもがより良い学びが実現出来るようにサポートすることを、協力を要請するということがあってよいのではないかと考えます。

こんな事を私が考えるようになったのは、実は、カナダの首都であるトロントに行った時に、時間が来ると親が学校に迎えに来るのです。随分よく親が迎えに来ますねと私が感心して言いましたら、そこの学校の先生が、これは来ないと罰せられると言うのです。だから学校の送り迎えは親の義務で、それが出来ないような場合は必ず誰かをきちっと、例えばベビーシッターを頼んで、やらなければ親が義務違反ということで社会的に罰せられるということを聞きましてびっくり仰天しました。

基本的に資本主義社会というか自由主義社会というのは、そういうことは非常にクリアーなのですね。その点、日本はそのへんは思いやり合いというか、そういう伝統があったので、今まではあまり言わないでしのいで来てしまったというのがあるのです。けれども、だんだん言わないとどうしようもない、言うのが当たり前になりつつあります。だとすれば、やっぱりそういう形で明文化して、例えば子どもが家に帰ったら食事はしっかり食べさせるのが親の義務だとか、そういうことははっきりした方がいいという状況になれば、そういうことをみんなで合意をつくっていかざるを得ないのではないかと思います。そういうことの上での学習者の尊重だということです。

 

「新しい教える」を考える

その学習者を尊重していこうということではどうやって授業に誘うのかという問題で、私が考えたのは、右上(資料)の『「新しい教える」の7つのステージ』ということです。昔式の教え込みとは違う学びを尊重する、新しい教えるという考え方でそこに7つのステージを書きました。

これは今日の話とそのままつながりませんから、時間もありませんので省略しますが、後でちょっとご覧いただいて、こういうような形で、子どもが自分から動きだすように促したり耕したりするというような働きかけから始まって、今度は子どもが動き出したら、それをサポートするということがあり、またそれを阻害するような条件があったら、やはり注意するとか、とどめるとか、そういうことも当然教師がしなければいけないわけです。そういうような学級文化というか、子どもを育てていくということです。そういう方法というのは一方では、私はこの本を書きまして、筑波大学の附属小学校に前いらっしゃった藤井國彦先生にいろいろお世話になっているものですから献呈しましたら、藤井先生が「これは理想だよな、現実じゃあないよな。」とおっしゃったのです。

 

リフレクションについて

まあ理想で、そううまくはいかないのが現実なのですけれど、そのうまくいかないことのどこがどのようにうまくいかないのかということを、自分で考えて直していくということが重要ではないかと考えます。そして、自分の授業を自分でふり返るという研究をしました。それはたまたまなのですが、1人でしこしこやっていまして、今から15年くらい前なのですが、学会に持っていって発表しましたら、その頃そんな事言う人がいなかったものですから、変なやつが来たみたいな感じで受け止められていたわけです。その後、数年のうちにこの「ふり返り」というのが「リフレクション」という言葉で外国の研究でも盛んに行われるようになりまして、日本でも、今や日本国中どこでも研究するならふり返りとか、リフレクションというような時代になってしまいました。隔世の感がありますが、たまたま私がやっていたことが時代の流れと重なったということにすぎないのですが。

そういうことでこのふり返りをするという研究をずっとしていまいりました。最初は1人でやっていたのですが、仲間の先生たちが一緒にやりたいっていうことで、一緒にやるようになりました。それがそこに参考文献であげました「お茶の水国語教育研究会」という国語を研究する仲間の先生たちと組んで説明文の教材を使ってやったのが、授業リフレクションの具体的な事例を挙げた、多分日本で最初のケース研究の本(「わかる・楽しい国語科説明文授業の創造 −授業リフレクション研究のススメ」お茶の水国語教育研究会編1996 東洋館出版)だと思います。

その後も見ていますときちっとやっているのがなかなかないですので、難しいところがありますが、最近ではいくつか出てきております。このふり返りの研究というのはいろいろな物が今出ていまして、例えば、京都大学の藤岡完治先生は、「カード構造化法」という方法でふり返りを、リフレクションを使っておりますし、同じ日本女子大学にいる、吉崎静夫先生は「ビデオ再生法」とか「再生刺激法」という形で使ってらっしゃいます。いろいろな形でふり返りを使う研究がされています。東京大学の佐藤学さんやもうおやめになりましたが稲垣忠彦さんは、アイスナーの鑑賞というものを取り入れた「授業カンファレンス」という言い方の研究を開発しています。

ですから、いろいろなものが出てきていろいろなところで、いろいろなやり方で、このふり返りをつかう授業の研究がされるようになりました。その中で似たようなところもあれば違うところもありということであるわけですが、やはり基本的な考え方によってその方法も違ってくるわけで、どれがいいのか悪いのかという事はやはり先生方ご自身で勉強していただいて先生方の実態に即した方法を取り入れられるのがよろしいかと私は思います。

 

授業リフレクション

私は「授業リフレクション」ということでやってきましたが、授業リフレクション研究だけが全てではないということですね。いろいろな方法があるということです。その時にこの中にも幾人か先生がいらっしゃるんですが、山梨大学に赴任してきてから、たまたま当分つかないだろうということで予算要求を出しました。国の予算というのは、申請すればつくというものではないので、大体普通は申請して5,6年でつきます。ですから、5,6年先につく事を予定して申請しましたら、その年に予算がついてしまって非常に困った事態が生じました。授業リフレクションを支援するシステムで、5千万位なのですけれど、申請しましたらほぼ満額でつきまして、青くなって、ねじり鉢巻で取り組みました。お金というのはつけば嬉しいのですけど、苦しいものなのですね。つまりどうしてもやらなければならないということで、全てを投げうって、お金がついたらそれしかやれないという状況になるわけです。

それで3年間はその開発を山梨のある会社の人と、そこでレーザーディスクで授業を記録できるようなソフトを開発しました。そして、それを山梨大学に入って、今日の学習会にもいらっしゃる浅川英司先生、志村香代子先生や元木公彦先生、嶋崎修先生にいらしていただいて、夜の9時頃からリフレクションをしてもらいました。大変なことだったのですが、1年間で業者の方とも50回ミーティングをしました。ほぼ毎週やっていたわけですね。だから業者の方がそれだけやるというのは、こちらは仕事ですけれどやっぱりそれだけ大変熱がこもっていたわけです。そのおかげでその開発のシステムが、今はずっともっと安い廉価な物が出来ました。そして、今、日本女子大学の学生が卒論や修論の論文書くのに使っています。そういうのを使って先生がふり返りをするのをサポートするというようなことをやっています。

 

私を映し出す鏡としてのリフレクション

ふり返りの研究そのものはべつに、機械がなければ出来ないわけではなくて、要は自分がやっている授業というのは自分で見えませんから、誰か教えている私を映してくれる物、子どもから見れば学んでいる私を映してくれる鏡が必要なわけです。人間はやっぱり自分を見るためには鏡が要りますので、その鏡の作用をするのがビデオであり、あるいはポートフォリオも使います。そういう授業中のいろいろなデータであるわけです。

そういう物を使ってふり返りをしていくとあの時に例えば自分のああいう指導をして良くなかったのではと言っても、その時何人の子が先生の言ったことに反応していたのとか、してなかったのとかいう話になった時に、記憶だけでは確認できませんよね。もちろん参加観察という方法があって見ていた先生があの時はあの子がよく聞いていたよとか、あの子はしっかりわかっているふうだったよと言うこともできます。これは参加観察している先生が鏡になってくれているわけですね。しかしこれも限度があるわけです。それで参加観察も入れるし、質問手法も使うし、ビデオも撮るしということで、私はダボハゼ的と言っていますが、何しろ何でもやって使える物は使うということであります。ただ、先生方は実際には非常にお忙しいので、あれもこれも使えませんから、おのずから制約があるわけで、実態は使える範囲で、やれる範囲でということになると思います。

研究的に本格的にやろうとすればそうやって精度をあげていく、データ精度を高めることが要求されます。私たちのように学会に持っていって発表するということになれば、やはりきちっとしたデータを整えてそれを元にして言わないと、その根拠はどこにあるのだとか言われれば答えられません。やはりきちっとしたデータを整える必要が生ずるわけです。もちろん先生方が判断なさる場合もきちっとしたデータがあれば、よりきちっとした判断が下せるわけですね。そういうことで私は現場と研究者が組む、そういう総合的な研究、共同研究ということが今は必要なのではないかと思います。昔のようにカンとコツだけではなかなかいかないだろうというふうに考えます。

 

山梨なりの授業リフレクションを

そんなことで実際に研究者と組んだ最近の研究のひとつとしてやっているものに、今日持ってきました物で、これは北海道教育大学の田中美也子先生という国語の先生なのですが、ご自分のところの卒業生といっしょにリフレクションをやったレポートを3つばかりまとめられました。たまたまですが、私も昨日いただいたので来る時の特急の中で読んできましたのですけれど、これをちょっと回覧いたします。

その他、神戸大学附属明石小学校が、もう3年目になるのですけれど、幼稚園から中学校までの「12年間一貫カリキュラム開発」を文科省の指定で、地域科研というので明石市と連携しています。非常に本格的にリフレクションをシステマティックにやっています。実は私もこの間呼ばれて、リフレクションを集団でする時の対話をしました。その聞き出す役目を「プロンプター」というふうに藤岡完治先生(京都大学)は言うのですが、私の場合は、「メンター(mentor)」というふうに言っています。

メンターという言葉をお聞きの方もいらっしゃると思いますが、これはイギリスではカウンセリングというか、地域で子どものことを相談する児童相談所にいるカウンセラーの、養成で使っていた言葉なのです。どういうカウンセリングをするのが望ましいのかということを、こういう授業のような形で説明するだけでは無理なのですね。それでいっしょにカウンセリングをする場合に「陪席」というのですけれど、一緒に横についていて、先生がカウンセリングをするのを見ながら、いわば徒弟的に弟子のようにして、認知心理学では「つけ込み方式」というんですけれど、そこに投げ込んで、その雰囲気を全身で学び取りながら習得する方法。そして、その時に今度はある程度それが出来てくるようになると、その人がやって先生が今度は「陪席」して聞くという格好になります。立ち会うと、それでその後でその先生の指導を受けると、これがメンターなわけです。

アメリカやイギリスではこの教師の力量ということについて、人種の問題とかありますから日本以上に深刻化していまして、どう指導しようかということでいろいろなやり方で科学的に分析したりするやり方をやったのですが、みんなうまくいかないで、結局最後に残ったのがこのメンター、つまりすばらしい能力をもっているベテランの先生についてもらって初任者の指導をする、あるいは教育実習生の指導をしていただく。日本では実は何十年か前まで自然とこういう事を職員室などで気軽な感じでやっていたわけです。学年配置についても校長先生がベテランの先生と新米の先生の組み合わせとか、面倒見のいい先生と組ませるなどして、授業で困ったらすぐ隣の机でその先生に相談すればすぐヒントを与えていただいたり、「なんだったら空き時間に授業を見に来ていいよ。」などといわれて、見せていただいたりして、「あー、ああすればよかったんだ。」ということを自然と気づかせるということが、日本ではあったわけです。また、今でもそういう学校や先生方もいらっしゃると思うのです。そういうようなことでメンターの方式を学校教育の中では、自然と以前から取り入れてきた状態だと思います。それが日本でももう一度見直されてきているという状態です。

そのメンター役の先生が話を聞いていろいろ引き出しながら、その先生がふり返りをするというようなことをやっています。これは集団の中での対話によるふり返りということになるのですが、そういうことでふり返りというのは今ちょっと出てきましたけれども、資料の裏側の一番上の所にありますが、自分自身のことをふり返るのが『自己リフレクション』、集団でふり返るのが『集団リフレクション』、それからメンターと一緒にふり返るのが『対話リフレクション』ということで、基本的な考え方はまず最初に自分でふり返りをする『自己リフレクション』で始まって『自己リフレクション』で終了します。その間に授業者の希望があれば、私たちの授業リフレクション研究の場合は、『集団リフレクション』したいとその先生が言えば行いますし、『対話リフレクション』がいいという場合はそれを行います。『対話リフレクション』の場合は、その単元について熟知している先生とか、その学年の子どもについて良く知っている先生とか、そういった先生と組んで、あるいは研究者と組んでということが多いわけなのです。学校で授業研究をするとか地域でするという場合は、また条件が変わりますから、明石の場合も私が行ってきたリフレクションのやり方とはちょっと違うやり方でいろいろ方法を開発しながらやっているようです。ですから、これから山梨でなさるのであれば、山梨は「山梨のやり方」を開発していかれたらいいと思います。

 

授業リフレクションの概要

リフレクションの研究の概要(資料)ということで申しあげますと2ページ目の参考資料の、中程の3の(2)のところに、授業リフレクション研究の概要ということで『「リフレクション」とは、ふり返ること、ふり返って深く考えること』ということで書いてあります。大事なことは、自分でふり返って懺悔することではないのです。あそこが悪いここが悪いと懺悔するのではなくて、ふり返っていろいろなことを記述している、語る間に自分の語るプロセスでいろいろなことに気づく。そうすると自分がそこの所でそのやり方をしたのはなぜかということについて考えていった時に、今まで意識していなかった授業に対する自分の考え方や、その子に対する見方あるいは接し方「教材観」などが、そこで引き出されてくるわけなのです。これを『気づき』というふうに言うわけで、大事なのは気づくことだというふうに考えるわけです。

その気づきはいいことである場合もあるし、まずいことである場合もあるわけですが、多くの場合気づきは自分というものがやっぱりいろいろな事を考えて子どものために一生懸命働きかけているのだという自分を受け止める、セルフエスティームなんていう言い方しますが、受け止めるものになる傾向にありますので、授業リフレクションは、先生方が自信を持っていただくためのものであると思います。

しかしその自信は、ただそれで良かったのだと思って終わるのではなく、しかし、その中にもこういう課題があるという形で今ある自分を受け入れると共に、次の課題が見えてくる。自分にとってはこのことの解決が必要だなというようなことが見えてくる。そういうものであろうと。だからそれは極めて個人的な、場合によっては課題なのであって、学校全体の課題というようなもの、あるいは一般的な教師にとっての課題というものとは限らない。その先生にとっての、そのクラスにおけるその子とその先生の関わりにおいてのという限定された課題であり、より具体的な課題であるという傾向があると思います。ただそういうものを継続して仲間とやっていく中で、ある程度共有できる課題ですとか、その学年特有の傾向性ですとかそういうものは出てくるわけですから、そこで一般化というようなこともあるのだと思います。そんなことで時間もきましたのでここまでということで一区切りさせていただきます。

 

(この後は神戸大学附属明石小学校で行った幼小連携カリキュラム実践授業における「対話リフレクション」のビデオを視聴しながら、澤本先生に「対話リフレクション」について解説していただいた。)

 

 

2回カリキュラム開発委員会・学習会

  (2001年8月9日昭和中央公民館)

 

記録再生:教育研究所・飯室繭香 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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